追い越していく人

 日曜日の朝、日本ダービーの馬券を買いに渋谷のWINSまで行った。まだ、10時前とはいえ、昨日とはうって変って気持ちよく晴れたせいか電車はかなり混んでいて、僕はドアの近くの吊革にかろうじて捕まることができた。長いこと履いてきた靴はもう踵の部分がかなり擦り減っていて、ちょっとした揺れでも体が傾いてしまったりする。

 意図したわけではなかったが、渋谷駅に電車が着きドアが開くと自分の近くのドアが南口の改札に繋がる階段の最も近くだった。ドアから降りて歩きだすと自然と自分が最初に階段を下りている人間になった。前に歩いている人が誰もいないというのはおかしな感覚で、少し不安になりかけたときに後ろから走ってきた人に追い越された。

 それはひとりふたりではなく、ほとんど全員が小走りで僕を追い越していったように思えた。みんな年齢も服装バラバラであり、何かの特定のイベントやまたはダービーの馬券を買いに急ぐ人たちとも思えない。先ほどとはまた別の不安が僕の心に芽生えた。独り取り残される怖さである。

 みんなが走っていると自分まで走らなければいけないような焦りを感じた。だけど、走る理由はないし…と思いとどまり、改札口まで普通のペースで歩いて切符を自動改札機に入れ、外に出てからふと後ろを振り返ると、ぞろぞろと歩いている人がいっぱいいた。早足の人もいるが、ほとんどの人は普通に、だらだらと歩いている人もちらほらと見かけられる。ほとんど全員が走っているように見えたのは僕の思い違いだった。

 WINSに向かう歩道橋を上がっているときに、人間の目は常に前を向いているという当たり前のことに気づいた。最初に階段を下り始めた僕を追い越していくには僕より速く移動しなくてはならない。僕と同じか遅い速度で歩いている人は僕の前に出ることはないのだから、視界には走っている人たちの姿しか入ってこない。それで、みんなが走っているような気分になってしまったのである。

 歩道橋を歩きながら、下を走る国道246号線を見下ろしていると車やバイクが引っ切り無しに走っている。そういえば、バイクに乗っているときにもさっきと同じような気持になったことがあったのを思い出した。

 バイクに乗っていて道が渋滞しているとき、よほど急いでいる時以外、僕は‘わき抜け’をしない。‘わき抜け’というは、渋滞している車の列の横を走ることだけど、狭い所を走るし、突然車線変更したりする車もあるから危ないのだ。そんなわけで、僕はあまり‘わき抜け’をしないことにしているのだけど、車と車の間で止まっていると次から次へと‘わき抜け’してくるバイクに追い越されることになる。その光景を見ていると、‘わき抜け’をしていない自分が損をしているような気分になることがある。

 しかし、急ぎの用事があって‘わき抜け’をしたとき、意外と僕と同じようにそれをしないでいるバイクの多いことに気づいた。つまり‘わき抜け’をしないときは、他の‘わき抜け’をしていないバイクと出会うことはなく、常に‘わき抜け’をしてきたバイクを見ることになる。そうすると、みんながそうしているように思えてしまうのだ。実際には‘わき抜け’をしているバイクの方が多いとは思うが、みんなそうしているという認識は誤りである。

 ゆっくり歩いていたり、渋滞にはまってじっとがまんしていたりすると、急いでいる人たちが横を通り過ぎていく光景を見続けることになる。そして、急いでいない自分に焦りを感じて不安になったりする。だけど、自分と同じように或いはそれ以上にゆっくりと歩いている人はいる。

 人に合わせる必要はない。自分のペースで行けばいいのだ。自分の歩きたいように歩けばいいのだ。そう思い、WINSへ早足で向かった。(2008.6.2)




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