不正出血

 2、3日、妻が塞ぎ込んでいた。こういうときは僕に原因があることが多いのだけど、思い当たることがない。それとなく、当たり障りのない話をしてみても‘心ここにあらず’という感じで、笑わせようと面白い話?をしても、反応がない。余程、何か彼女を傷つけることを言ったか、したのではないかとまた考えてみたが、やはり心当たりはない。

 夜、床に入り電気を消してウトウトし始めた頃、妻が僕の名前を呼んだ。「何?」と半分眠りながら訊くと、また彼女は僕の名前を呼んだ。「何?」と今度は少し大きめの声で訊くと、彼女はそのまま額を僕の肩に寄せて眠った。

 翌朝、「生理になったんじゃない?」と僕は妻に言った。結婚する以前、彼女は生理になると怒りっぽくなったり、気分が沈んだりと精神的に不安定になることがあると言っていたのを思い出したからだ。すると彼女は「なってない」と冷たく言った。

 仕事から帰ってきて「ここのところ元気ないような気がするんだけど?」と彼女に訊いた。どうしても自分に思い当たることはなく、こういう状態が続くのは重苦しいし、早目に彼女の塞ぎ込んでいる原因をはっきりさせた方がいいと思った。すると妻は、しばらく沈黙していたが、「おりものに血が混じっていた」と言った。

 それがどういうことなのかよくわからず、訊くと「子宮ガンかもしれない」という。彼女の知り合いにそういう人がいたらしい。しかし、生理以外で性器から出血のあった場合、それがすぐに子宮ガンということもないような気がして、今までにこういうことがあったのかと訊くと「今までにはなったことがない」という。

 心配になり、ネットで調べてみると生理時以外で性器から出血のあることを不正出血というらしく、疑われる病気は子宮ガン、子宮筋腫、子宮内膜症、卵巣ガンなどとある。しかも、‘一番に子宮ガンの心配がある’と書かれている。とにかく、早く病院で検査を受けた方がいいと言うと「怖い」と彼女は言い、「もし、子宮ガンだったらどうしよう」と泣きそうな顔になった。

 しかし、怖くても何でも検査はしないといけない。彼女を少しでも安心させるために、さらに不正出血のことが詳しく載っているサイトを見ていくと、病気だけでなくホルモンのバランスの崩れたときにも出血が見られる場合があると書かれていた。そのことを彼女にいうと「そう?それかもしれないね」とやや明るさを取り戻した。

 不正出血のあった日から、妻は心が凍ってしまったという。ガン、ガン、ガン…と頭の中がいっぱいになってしまい、またそれを誰にも言えず、ひとり悩み苦しんでいたらしい。

 翌日の朝、すぐに病院に検査の予約を入れた。‘もしかしたら…’などと考え続けるのは精神衛生上好ましくないし、何であるにせよ早期に検査を受けるのが最も大切なことである。凍っていた妻の心もだいぶ溶けて来たようで、僕も少しほっとした。

 検査の当日、妻は「怖い、怖い」と言っていたが、意を決したようで朝早く病院に向かった。夜、仕事から帰って来て、妻に検査はどうだったか訊いた。結果の出るのは2週間後だが、とりあえずエコー検査では異常はなかったと言った。妻もだいぶ落ち着いたようでほとんど普段の彼女に戻っていた。


 そういえば10数年前、同じ職場で働いていた女性から「私はガンかもしれない」と言われたことがあった。僕は彼女のことをかなり気に入っていたので、「もしガンで余命いくばくもないとしたら、イタリアに連れて行ってあげる」と言った。彼女がイタリアに行きたいと日頃言っていたのを聞いていたからだ。

 彼女が末期ガンだったら、自分の全財産(といっても200万円くらいだったと思うが)をなげうって仕事も辞めて彼女の最後の望み、イタリアを見せてあげようと思った。その想像は甘美な破滅の香りがして、若かった僕はそれに酔った。

 「私がガンだったら、Hさんがイタリアに連れて行ってくれるんだって」と彼女は周囲の人に話した。まるで自分がガンであってほしいような彼女の態度に、少し興ざめしてしまったが、それでも僕の気持ちは変わらなかった。今、考えてみるとこの時の自分の気持ちは破滅願望だったように思う。

 確か横溝正史の殺人鬼という小説だったと思うが、やってもいない殺人を自分がやったといい殺人を犯した女と共に破滅していく青年の姿が描かれていた。金田一耕助は彼の行動を「時代に絶望したのではないか」と推測する。当時の僕が現実に絶望していた覚えはないが、一時の快楽に身を委ね、後はどうなってもいいというような気持はあったように思う。また、彼女もまた僕と同じような心境だったのかもしれない。

 結局、彼女はガンなどではなく、全くの健康体で念願だったイタリア旅行もして、現在は一児の母になっている。


 金曜日、検査結果が出た。何処にも異常はなかった。何はなくても健康が一番である。健康でさえいれば、それだけで可能性は広がる。(2008.5.4)




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