土曜日、久しぶりに床屋さんに行った。その途中にある桜並木の通り道では歩道の拡張工事が行われていて、何本かの桜の木が伐採されてしまい少し寂しい感じになっていたけど、陽光が優しく降りそそぎ、花びら舞い散る中を歩くのは気持ちよく、今週もう一度花見に行きたくなった。 床屋さんには先客がいて少し待たされたけど、陽気がいいせいかあまり気にならず、置いてあるスポーツ新聞や週刊誌を久しぶりにじっくりと読んだ。今、家では新聞は取っていないし、週刊誌を買う習慣もないので、この時間は貴重のように思われた。 先客の散髪も終わり、僕の番になったが、この床屋さんに来るとどうしても話は夏休みのことになってしまう。というのも、僕が以前ずっと夏にはバイクで北海道を旅していたことを知っているため、バイク好きの彼はその話を聞きたがるのだ。しかし、妻帯者となった現在ではひとりでツーリングに行くことも難しく、その話になると少し寂しい気分になる。
「今年はたぶん北海道にはいかないと思いますね」 ここのところ気候が温暖化してきたせいか、桜の開花時期も早くなってきて、昔は入学式の頃、満開になっていたような気もするが、最近はそれが卒業式の時期に移ってきたように思う。 小学校の入学式のとき、正門から校舎へと続く体育館わきの道の両側に植えられた桜並木はピンクのトンネルで、花びらのひらひらと舞う中、母に手を引かれて歩いた記憶がある。しかし、これが正しい記憶なのかはわからない。僕の頭の中で勝手に創り出された美しい幻想に過ぎないかもしれない。小学校の卒業式、中学校の入学式そして卒業式のときの桜の記憶が全く残っていないからである。 桜は卒業式のときに満開の方がいいのだろうか?それとも入学式のとき満開の方がいいのだろうか?と考えてみて、卒業と入学はセットであるという至極当たり前のことに気づいた。何処かを卒業して何処かに入学する。ただ、社会に出て行く人たちを除いて。 床屋さんの娘さんは桜の満開の頃、高校を卒業し、その花びらが風に乗って空に舞う頃、大学に入学をする。それが、一番美しいイメージなのかもしれない。 「そうですか。まだ残っていますか」床屋さんはうれしそうに言った。(2008.4.6) |