Kさんの再就職

 2月中旬で会社を辞めたKさんが給与明細を取りに会社に来るというので仕事の仲間3人と、いっしょに昼食をとろうということになった。待ち合わせをした店まで行く途中で
 「Kさん、仕事決まったのかな?」と独り言のように呟くと、彼女と最も仲の良かったYさんが
 「決まったようよ。まだ、詳しくは聞いていないんだけど3月から働き始めたみたい。この前もらったメールに書いてあった」と言った。2月中旬に辞めて、3月初めにはもう働き出している…、その速い展開に子を持つ母の強さのようなものを感じずにはいられなかった。

 店に着くとすでにKさんは来ていて、「こっち、こっち」とカウンターのところで店内を見回していた僕たちにいっぱいの笑顔で手を振った。ほとんど個室のような作りになっている4人掛けのテーブルに座り、みんな揃って日替わり定食を注文した。

 やはり、一番訊きたいのはKさんの就職先である。どんな職種なのだろうか、確か辞める前は事務系の仕事を探していると言っていたが…。そんなことを思っているとYさんが
 「どんなところで働いているの?」とKさんに声をかけた。
 「○○」とKさんは応えたが、それがよく聞き取れず、「へー」と感心したような声を上げたYさんに訊き直して○○の部分が全国というよりは全世界に店舗を拡大している90年代に設立された某大型チェーンストアであることがわかった。Kさんは職種を答えると思っていたのに、会社名を言われたため、僕はすぐに理解できなかったらしい。

 日本人なら恐らく誰でも知っているそのチェーンストアに、「へー」と「えー」が混じったような感嘆詞が口に出た。
 「年齢制限は40歳までになっていたんだけどね、電話したら‘長期でできるのなら、いいですよ。来てください’って言われて…」
 Kさんは今年47歳になるが、見た目は30代でも通りそうだし、いっしょに働いていた時も風邪ひとつ引いたことのない健康体で、何より食欲も旺盛でパスタ屋さんに行くといつも大盛りで注文するくらいなのだ。こういう人に年齢制限などあまり意味のないような気がする。
 「それで週何日働いているの?」とまたYさんが訊いた。
 「週ごとに出勤日のシフトを入れられるんだけど、木曜日は子供を向いに行かないといけないから月、火、水、金の週4日にしているの」
 「時間は?」
 「9時30分から6時まで」
 出てきた料理を食べながら、さらにいろいろとKさんに新しい職場のことを訊いた。

 初出勤日にかなり分厚いマニュアルを渡されて、空いている時間に読んでおいてくださいと言われたそうである。仕事柄、重いものを持つことも多く、また、それはそれほどきれいでないことの多いため一日働くと手は真っ黒になってしまう。今はインストラクターという人がついていっしょに動き仕事を教えてくれている…。と彼女は淡々と話した。

 「昼休みは1時間取れるんだけど、みんないっしょに食事をすることになっているの。お弁当を持って来ている人は、そのままなんだけど、お弁当を持って来ていない人は1階にあるコンビニまで買いに行くのね。それが、おかしいの。みんないっしょのエレベータに乗って買いに行ってね、それぞれ買い終わった後もエレベータの前に全員集合してから、またいっしょにエレベータに乗って戻るの。あと、途中に15分の休憩があるんだけど、休憩のとき誰も座らないのよ。みんな立ったままでお茶とか飲んでいるの」

 休憩に行く時は「休憩行ってきます」と言い、休憩から戻ってきたら「休憩ありがとうございました」と声をかける決まりになっているそうである。Kさんの話を聞いていると、新しい会社にしては、やけに体質が古いような感じがする。

 「続くかどうか心配」とKさんは茶目っ気たっぷりに言った。
 「今からそんなこと言ったらダメですよ」と僕は冗談半分にたしなめた。
 彼女の表情からは退社する前の陰がすっかりなくなっていて、いっしょの部署で働いていた頃の明るく朗らかなKさんに戻っていた。

 Kさんの近況をひとしきり聞き終えた後は、今いる会社の状況を聞いてもらった。辞めた会社の愚痴を聞かされるというのは、どんな気持ちなのだろう。

 僕も長く勤めた会社を辞めた後、元同僚から飲みに誘われたり、或いはメールで会社の近況をいろいろと聞かされたことがあった。それほどイヤではなかったけど、あまり面白いものでもなかったような記憶がある。もう、あまり関心がなかった。人間って前を向かなければいけない時は、前を見ることだけに集中するのかもしれない。

 「また、聞くからね」憂鬱そうな僕たちの顔を見ながら、分かれ際にKさんはそういって笑った。(2008.3.8)




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