妻の姉は国際教室の支援者をしている。その関係で週に4日、地域の小学校に出向き、外国人の子供たちの援助をしている。具体的には日本語やひらがな・カタカナ・漢字などの文字を教えたり、日本の物語を聞かせたり、学校の先生とそれらの子供たちの意志の疎通を助けたりしている。 実際に日本の小学校に行くからわけだから、そういった子供たちだけでなく、必然的に小学校の教師や日本の子供たちと接することになる。そんな中、彼女は教師たちが子供に遠慮して、怖々と接しているように見えるという。 何かを子供たちにさせるとき、教師は子供たちに「これ、やりますか?」と訊くらしい。そんな遠慮がちに言わずに、「これ、やりましょう」と言えば済むのではないかと彼女は不思議がっていた。大人の世界であれば「これ、やりますか」と「これ、やりましょう」はほとんど同意語である場合もあると思うが、相手が子供であるとそのニュアンスはかなり違ってくるように思う。義姉は生まれは日本だけど、育ちはペルーであるから、かえってそういった差異を敏感に感じるのかもしれない。 そのペルー育ちが影響してか、義姉は学校の中ではかなり強烈な存在のようだ。喜怒哀楽が激しいのである。喜ぶときは大いに喜び、子供を叱るときはかなり強く叱るらしい。 授業中にクラス中でひとり騒いでいた子供がいた。義姉はその子を黙らせるため、その子の上に座ってしまったという。彼女の体重は80kg前後(妻の推測)だと思われる。そんなものがお腹の上に乗ったのであるから、想像するだけで同情してしまう。乗られた子は「重い、重い」と叫んで「もう許して」と謝ったという。 また、彼女がひらがなを教えたペルー国籍の子供がトイレの鏡に「○○しね」と自分に嫌がらせをした子供のことをクレヨンで書いた。彼女はそんなことを書かせるためにひらがなを教えたのではないとみんなの見ている前で、かなり強くその子をスペイン語で叱ったという。その激しさに周りにいた教師はびっくりしたらしい。叱り終えて「大きな声を出してすいません」と謝る彼女に、ただ呆気にとられていた教師は「いや、いや、結構でした」というのが精一杯だったようだ。 そのような状態だから、生徒から恐れられているのではないかと思ったら、義姉は生徒の中ではちょっとした人気者になっているらしく、顔を見せると「A先生」「A先生」とみんな寄ってくるという。叱った子供から家に招待されたこともあるらしい。なぜ、彼女はそんなに生徒から親しまれるようになったのだろう。 騒いでいる子供の上に座ってしまうなど、行動の奇抜さが子供たちに受けているという面はあるだろうが、その理由は彼女が本気で彼らと接しているからではないかと思う。子供というのは意外に大人を見ているものである。子供だからといい加減に遊んでいると、悲しい目で見られたり、「もっと真面目にやってよ」などと怒られたりする。 教師たちが子供に遠慮し、半ば機嫌をとるような態度だと、彼らはそれを敏感に察して馬鹿にするようになる。舐められてしまうのだ。そんな相手を子供は尊敬もしなければ、親しみも持たないのではないだろうか。 義姉は恐らく難しく考えてはいないだろう。自分の子供たちと同じように、ただ自然に接しているだけのように思う。彼女の話を聞いていると、悪いことをしたら叱る、いいことをしたら褒める、話に耳を傾ける、いっしょに楽しく遊ぶ、自分の気持ちをはっきり伝える、そんなごく当たり前のことを当たり前にやっているだけなのだ。しかし、それが非常に難しいのである。 人はどうしても自分が一番可愛いために、保身を第一に考えてしまう。そのため思考回路が複雑になっていき、他人からよくわからない人になる。子供に気を使い、保護者に気を使い、上役の教師に気を使いと現場の教師たちはへとへとになっているように思う。 さらに、最近は子供を叱ることのできない親も増えているという。優しく接すれば子供には好かれる。しかし、好かれるのと信頼されるのでは微妙な差異があるように思う。子供が真に頼るのは優しいだけの人間ではなく、信頼できる人間なのだ。教師にも、そして親にも本気で接してもらえず、周りに信頼できる人間のいないまま子供は成長していく。その将来を考えたとき、怖くなる。 僕には子供はなく、教育についてあまり真剣に考えたこともないし、何かを語れる知識もない。しかし、義姉の話の中に荒廃している教育の現場を再生させるヒントがあるように思う。 ただ、子供を叱るとき、その子の上に座るのは止めた方がいいのではないだろうか。いつか、死者の出るような気がする。(2008.2.29) |