髪結いの亭主

 ここのところ会社の中がバタバタしている。というのもパート従業員の社会保険加入の問題が起きているからである。昨年の暮れ、社会保険庁の職員が視察に来て、指導を受けたようだ。今までパートで社会保険に加入していた人は、事業所設立当時から働いている数人だけで、加入対象になる人でも会社はその義務を怠ってきたのである。

 社会保険に限らず、現在働いている会社はいい加減で、パートでいえば有給休暇はないし、一日の労働時間が8時間を超えたとしても残業分の割増賃金は払われていない。社員にいたってはいわゆるサービス残業の雨あられである。退職した社員から未払いになっている残業代請求の裁判を起こされても、この刑事罰にあたる違法行為を改めようともせず、タイムカードを廃止して手書きによる勤務表にしてしまうような会社なのだ。

 そんな職場で先月末から社会保険加入とそれによる勤務形態の見直しのため人事課長によるパートの個人面談が始まった。会社側としてはできるだけ経費を抑えたいため、社会保険加入が義務付けられる労働時間に達している人たちの勤務時間の見直しを行い、それによって今まで週6日42時間働いていた人が週4日24時間になってしまうというようなことが起きた。

 また社会保険に加入することになったパートでも、年に1ヵ月の休みを取るように言われた。僕は週5日で社会保険に加入ということになったが、仕事の暇の時期(特に2月と8月)に1ヵ月の休みを取るように言われ、それに対する不服を口にすると
 「夏に何処かで短期のアルバイトでもしたらええやんか。会社はあなたたちの生活のためにあるんやないからな」と言われた。

 また別のパートの人は
 「暇なときはゆっくりと休んでもらったらええ。その変わり忙しい時期になったら思いっ切り働いてもらうから」と言われたようで
 「忙しい時期、‘思いっ切り働いて’って言われても、そんなに夜遅くまで働きたくないよ」と笑っていた。彼女の言うように大多数のパートは暇だからといって休まされたり、忙しいといって遅くまで働かされたりするのはご免で、9時から5時まで安定して働きたいのだ。会社側の都合だけで、全てを律しようとする動きに反感は強まっていったようだ。

 会社側としては、暇な時期はパートの勤務時間をできるだけ少なくして賃金を抑制し、繁忙期は新しい人を雇い入れるより仕事のわかっている人を使い、できるだけ効率を上げたいと考えているのだろうけど、働く方の立場からいうとそれはただ単に‘虫のいいはなし’に過ぎない。会社が従業員の生活のためにあるのではないというのなら、僕たちも会社のために生きているわけではない。自分の生活のためである。

 中には社会保険に加入できると無条件で喜んでいた人もいたが、むずがって退職を申し出る人が続出した。それも入社1〜2年目の若い人から、10年近くなる中年のベテランまで広い範囲に及んで、さすがに会社側も多少考え直したようで社会保険加入者に関しては、強制だった1ヵ月の休みがなくなった。

 しかし、この2月、3月に辞めるパートの穴は大きく、社員がカバーすることになり、うちの部署からもひとり他の部署へと異動になった。それで移動先の部署は何とかなるが、今度はうちの部署が手薄になってしまった。3人いたうちのひとりの社員が異動になり、もうひとりはこの2月末で定年をむかえるのである。定年になる社員は退職せず、嘱託として続けて勤務するようだが、正社員がひとりというのはあまりにもリスクが大きい。毎週ある日曜出勤も彼ひとりで行わないといけなくなり、その代休も取りづらい状況になってしまう。もし、彼が体を壊したら…。

 今頃になって、ようやくその事実に気づいた会社はもうひとり正社員を増やそうと、僕に声をかけてきた。しかし、僕はお断りをした。正社員に何も魅力を見いだせないし、ましてこのような会社なのである、何の迷いもなかった。

 「正社員になれば、今の倍近い収入になるよ」と部署でただひとりになってしまった社員さんにも説得された。
 「自分は気楽な方がいいんです」と断ると、彼は頭に来たようで
 「Jさんばっかり働かせて」と妻の名前を口にした。妻は水曜日から金曜日までの週3日、会社の勤務の終わった後の6時から11時までスーパーのレジ係として働いている。僕は一言の反論もできなかった。さすがに彼も言い過ぎたと思ったのか、それ以上僕を責めることはなく、正社員の話は消えた。

 確かに僕が正社員になれば、妻は夜にスーパーで働く必要はなくなる。しかし、それはどうしてもできない…、少なくてもこの会社ではできない。それは緩やかな自殺行為のように僕には思えるのだ。

 妻には少しでも楽をさせてあげたい。それには、どうすればいいか…。(2008.2.10)




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