The blind leading

 仕事を終えて、夕食の食材をスーパーに買いに行った帰り、足に何か当たった感触があり、後ろを振り向いてみるとサングラスをかけた若い男性がいた。その男性は白い杖を持っていて、それが僕の足に当たったのだ。それは目の不自由な人が持っている通常のものより、かなり長かった。彼はそれで自分の進行方向を探り、人の多い地下のフロアーを早足で進んでいった。

 僕も後ろを振り向いて彼を確認した次の瞬間には追い越されていた。仕事の疲れと買物の荷物の重さで、のろのろと歩く僕を後にして彼は人ごみに紛れた。次に彼の姿をはっきり見たのはエスカレータの前まで行った時だった。そのかなり上の方に彼は左側に身を寄せ白く長い杖を抱えて立っていた。

 僕はエスカレータの右側を歩いて上がり、彼の後を追う形に自然となった。駅に向かう通路はいろいろな方向から人が歩いて来て、さらに歩き難いはずだが彼は杖を巧みに操って颯爽と歩いていた。疲れているとはいえ、目の見えている僕との距離は広がる一方で、やがて人の中に消えてしまった。僕は彼に畏怖を感じた。

 改札を抜け、電車に乗ってから実は逆なのではないかと思えてきた。目の見えない彼が速いのではなく、目の見える僕が遅かったのではないかと…。いや、遅かったというより、速く歩くことができなかったのだ。

 僕の目には常に周囲の景色が入ってくる。いろいろな方向から歩いてくる人たちが見える。彼らに気を取られ、ぶつかってはいけないという気持ちが働き、ついつい足が慎重になる。それを裏返せば、彼に周囲の景色はなく、ただ音がある。周りの音に注意を払い、杖で目の前に障害物があるかどうかを探り、何もなければ前に進む…。

 そんなことを考えていたら、ふとこれはいろいろなことに当てはまるのではないかと思えてきた。人生などもただ前だけを見て突き進むように生きる人もいれば、周りを見ながらゆっくりと歩くように生きる人もいる。そういえば沢木耕太郎のエッセイに‘風が見えたら’というのがあったのを思い出した。

 マラソンランナーの瀬古利彦を題材にしたものだが、この中にゴーマン美智子が東京国際マラソンで思うような結果の残せなかった理由が書かれている。神保町から日比谷にかけてかつて自分の暮らしていた街並みを見たとき懐かしい気持ちになり、「もうこれで充分」と思ってしまったという。それに対して優勝したジョイス・スミスは多数いた沿道の観衆にも「全く気付かなかった」と言っているのだ。スポーツの世界では一心不乱に前を向いて進むものが勝つということなのかもしれない。

 人生においても早くゴールした者を勝ちとするような風潮があるように思う。いい年をして、よそ見ばかりしている者は負け犬といわれる。しかし、人生に明確な勝ち負けがあるのだろうか?目的地に早く着けばいいというものでもないような気がする。遅くても、立ち止まっても、いろいろな風景に出会える方が愉しいではないか。

 そんなことを考えていたら、危うく電車を乗り過ごしそうになってしまった。慌てて飛び降りると、僕の前には人、人、人だった。疲れた足を引きずり、重い買い物袋を持ちながら、その中をのろのろと歩いた。

 家に帰り、食事を済ましてからネットを見ていると、くりぃむしちゅーの高橋酒造のコマーシャルが「知事選が迫る中、選挙関係者に誤解を招く恐れがあるから不適切」との判断で放送を自粛することが決まったというニュースが載っていた。ふと、今の日本はあのデパートの地下で見かけた盲人に似ているように思えた。(2008.2.2)




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