夜の公園

 8時に仕事を終え、家路に着いた。家の近くには小さな公園があり、その中に足を踏み入れるとベンチにひとりの男性が座って文庫本を読んでいた。ちょうどそのベンチの上に街灯があり活字が読めるくらいには明るいのだけど、12月の寒い夜になんで公園のベンチに座って本を読んでいるのだろう。ここのところ、おかしな事件が続いているし、ふと不安を覚え、まじまじと見てしまった。

 年の頃は30代前半というところだろうか、がっちりとした体をしている。それほど厚くなさそうなセーターの上にジャケットを羽織っているだけで、この寒さの中、外で本を読むにはあまりに軽装のような気がする。僕の方に全く関心を示さず、読書に没頭していた。それもまた異様で、家に帰ってもしばらく彼の姿が頭から離れなかった。

 何でこんな寒い夜にわざわざ公園のベンチで本を読んでいるのか、まず考えられることは誰かと待ち合わせをしていたということである。これだといろいろと説明のつくような気がする。本を読んでいたのも待っている間の暇つぶしで、寒さのわりに軽装だったのも待ち合わせた後、すぐに彼の自宅に案内する予定だとすれば説明のつくような気がする。

 とりあえず合理的な説明はつくのだけど、それだったら僕の足音を聞いたとき、何故全く無反応だったのかという疑問が残る。誰かと待ち合わせていたら、人の気配を感じればすぐにそちらを確認するはずだ。まして、寒い夜中なのだから。

 次に考えられることは、家庭または会社で何かあり、ひとりになりたくなったということである。僕もたまにひとりになって、いろいろと思いに耽ってみたいという衝動に駆られ、バイクに乗って海に行くことがある。彼もまたそんな気持ちになったのではないか?しかし、である。それが何故、およそ快適ではない夜の公園だったのかというとわからない。他にもっと適当な場所はあるはずだ。

 彼の姿を見て、黒澤明監督の‘生きる’という映画の1シーンを思い出してしまった。主人公の役所の市民課課長は自らの尽力によってできた公園で雪の降りしきる夜にブランコに座りながら‘命短し、恋せよ乙女’と「ゴンドラの唄」をひとり唄っているシーンである。主人公の幸せと不幸せ、喜びと悲しみを同時に表現した素晴らしい場面だった。この映画のユニークなところは主人公が物語の半ばで亡くなってしまい、その後はお葬式に出席している人たちの回想によって進んでいくことである。

 主人公は完成した公園で死体になって発見される。新聞記者は公園建設の影の功労者にもかかわらず完成式典も末席を与えられただけで完全に無視されたことに対する抗議の自殺ではないか?と疑う。それに対して市の助役は検死の結果、胃ガンによる胃からの突然の出血によるもので本人も思いがけないことだったのだと事務的な説明をする。何故、雪の降りしきる寒い夜に公園に行ったのかという主人公の内面は主人公を見かけたという警官の証言までわからないのである。

 僕の見かけた男性も寒い冬の夜に公園で本を読む合理的な理由などなかったのかもしれない。ただ、そうしていたかっただけだった…。


 学生の頃、バイクで高速道路を飛ばして広島まで行き、コーヒーを一杯飲んで帰ってくるということをした友人がいた。何でそんな意味のない酔狂なことをしたのか?その応えは「そうしたかったから」

 こんなことをするのはその友人だけかと思っていたら、当時は結構こういうことが流行っていたらしい。広島が大阪になったり、コーヒーの代りにラーメンだったりするけど、バイクを飛ばしてとんぼ返りするというところは共通していた。

 その友人がかっこよく見えた。管理社会がひたひたと押し寄せる中、彼の行動が自由の象徴のように思えたのだ。しかし、その一方、寂しさのようなものも感じた。


 冬の夜中の公園のベンチでひとり本を読んでいる男。そんなことのできる彼にうらやましいような感情が起こった。そして同時にある痛々しさも感じた。(2007.12.22)




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