自由な心

 パートも4年続けると、変なプライドのようなものが心の中にはびこってしまうようだ。ちょっとしたことで、それが傷ついたような感覚になり、「こんなことは俺のやる仕事じゃない」とか「何でお前がその仕事をするんだ」とか、嫌な気持ちが膨らみ、僕を苦しめる。

 例えば朝のゴミ捨て。気づいた人がひょいと気軽に捨てに行けばいいわけだけど、他の人が気づかなかったり、何か別のことをしていたりして自分が2日連続くらいでそれをすることになったりすると「何で俺が毎日捨てに行かないといけないんだ。こういうことは新しく入った人が率先してやればいいんだ」というようなケチ臭い気持ちになってしまう。何かの荷物を運んだりする時も「こんなの後から入った奴に運ばせればいいじゃないか」というような自分でも嫌になるような精神状態になるときがある。

 また、今の仕事はローテーションがあり、いくつかの作業を交代で行うようになっているのであるが、人が休んだり、他の作業が急に入ったりして空きが出てしまうことがある。そんなとき、自分勝手に動く人がいる。まあ、誰かがその空いた所を埋めないといけないのだから、何か支障が出なければいいのだけど、そういうのを見ると「自分のやりたいことばかり勝手にやりやがって」とイライライした気持ちになる。そういう人はだいたいきつい作業が空いたときは知らんふりをしていて、楽だったり、比較的面白い作業の空いたときに我先にとずうずうしく入って来るものだから余計に頭に来てしまうのだ。

 こういうことがいちいち気になり、心に波風が立って嫌な気分になることが多くなったように思う。働き始めた頃は、当然一番下っ端だから、余計なことは何も思わず、ただ黙々と動いていた。「昨日は俺がゴミを下したから、今日はアイツがやる番だ」とかいちいち考えるのは疲れる。このような状態が続けば、心は疲弊し、硬くなっていくように思う。

 他人のことなど気にせず、どんな仕事でも働き始めた時のように、気持ち良くできるようになれればと思う。ゴミがエレベータのところに積まれていたら、今度は誰それの番だとか考えず、サクサクっと自然な気持ちで下せるようになれたらどんなに楽だろう。

 僕はパートとはいえ今の仕事を4年間続けたため、自分を何者かになったと思い込んでしまったのかもしれない。何者かになったと思うことにより、変なプライドが生まれたような気がする。そして雑用のような作業は知らず知らずのうちに後から入ってきた奴にやらせればいいと考えるようになったのだろう。

 何者かもなったと思うこと、それは裏から見れば自分で自分自身を縛り付けることに過ぎなかったのかもしれない。自分で自分を規定し、そして他人までも既定してしまう。何者にもなりたくなくて今の仕事に就いたのに、気がつけばまた元に戻っていたのだ。

 そういった‘拘り’から解放されるには、自由な心というものを持つことのように感じる。ほんとの自由な心とは、自分を何者とも思わないことだと思う。一切の肩書もプライドも捨てて裸の心になることではないだろうか。そのとき初めて自由になれるような気がする。そうすればどんな仕事をしたとしても、精神的に辛くなることはなくなる。

 だけど、それは難しいことのように思う。人は自分の持っている価値観からなかなか離れられないし、プライドも知らず知らずのうちに生まれているものだから…。とりあえず、少しづつでも前進できれば…。まずは、朝のゴミ捨て、それを気持ちよくすることから始めようと思う。(2007.11.23)




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