Gone

 生活に追われ、日常に汲々としていると大切なものがわからなくなり、細かいことばかりに気がいってしまうようだ。電気はこまめに消すようにとか、買い物が多すぎるとか、長電話を控えるようにとか、トイレで小のときは水を少な目にとか、ついつい煩くなってしまい、そして、妻と言い争いになる。

 喧嘩になるのは週末、それも土曜日が多い。一週間の疲れがたまっていて、心が鋭くなっているせいだろうか、ちょっとしたことでイライラしてしまう。この前も妻の帰りが少し遅くなったことに端を発して揉めてしまった。

 帰りが遅いといっても、まだ6時40分くらいだったのである。土曜日の仕事の終わるのが5時、だから買い物をしたとしても6時くらいに帰ってくるものと思い、前日に作ったカレーを温め、ご飯を炊き、余っていたゴボウとニンジンできんぴらごぼうを作った。

 しかし、妻はなかなか帰って来ない。お腹の空いた僕は妻を待たずに独り夕飯を食べ始めた。そして、それを食べ終わったくらいに玄関のドアが開いたのである。こんなことならもう少し待っていればよかったなと思った。ウィークデイならまだしも、土曜日なのである。

 しかし、内心とは裏腹に
 「帰って来るのが遅いから先に食べちゃったよ」と軽い口調で僕は言った。
 「いっしょに食べようと思っていたのに…。魚のおつゆ作るって言っておいたでしょ」買い物袋の中を見ると鯛のブツ切りが入っている。
 確かに妻は出掛けにそんなことを言っていた。僕は「カレーにおつゆは合わないから、作らなくていいよ」と言ったのだけど、彼女は「カレーだけじゃ、寂しいでしょ」と行って出掛けてしまった。

 「朝、作らなくていいって言ったでしょ。カレーには合わないよ」自分でももっと優しい言い方をすればいいのにと思うのだけど、何故か口調がきつくなる。
 「そう…。いっしょに食べようと思っていたのに…。お酒も買って来たのよ」妻は悲しげに言う。まずい展開になってきたなと思った。優しく対応すれば何でもないことなのだろうけど、ついイライラしてしまい
 「それじゃー、帰るまで食べるのを待ってろっていうのか。いつ帰って来るのかもわからないのに」とさらにきつい口調で言ってしまう。
 「食べるのなら、電話してくれればいいのに。そうしたら、もっと早く帰ってきたのに」
 「自分こそ、遅くなるのだったら電話すればいいじゃないか」
 繰り返すが、妻の帰って来た時刻は6時40分なのである。全然、遅い時間ではない。そのことをわかりながら「遅い時間」などと言うのだから、性質が悪い。

 「まだ、7時前でしょ。遅い?遅くないでしょ。夕食だって8時くらいでいいじゃない?」
 「8時まで待っていたら、お腹空いちゃうよ」
 「週末くらいはゆっくりしたいの。仕事の終わった後、自分の買い物とかもしたいし、いろいろと見たいの」妻の言うことはもっともである。自分でもそう思いながら、何故か優しい言葉がかけられない。
 「それだったら、9時でも10時でも好きなだけ見ていればいいじゃないか」とまるで建設的ではない投げやりなことを言ってしまった。明らかに相手を傷つけるための言葉だった。日本人だったら、激しい喧嘩になるところだと思うが、ペルー人の妻はその辺りがよくわからなかったようで、
 「9時も10時もいたくないの。ちょっとだけ見たいだけなの」と寂しそうに言った。しかし、その表情から傷ついていることだけは確かなようだった。そして、カレーを温め、静かに食べ始めた。

 僕はやり切れない気持ちになった。独りカレーを食べる妻の姿はあまりに寂しかった。そのことの罪悪感がさらに僕をイライラさせた。悪いと思う気持ちがあるのなら、素直に自分の非を認めて謝ればいいのだけど、それができない。その反動だろうか、冷たい態度をとってしまうのだ。

 カレーを食べ終え、お皿を台所で洗っている妻は泣いているようだった。それでも僕は黙ってテレビを見続けていた。そうするよりなかった。彼女の方から何か言葉をかけてくれるのを待っていた。何故、僕はこうなんだろう。人に甘えることに慣れてしまっているからなのか。

 息の詰まるような時間が流れていた。僕は冷たい人間だ。何処までも石のように冷たくなれる気がする。しかし、それは苦しい。その苦しさからどうやったら解放されるのだろうか?

 しばらくして、妻の方から声をかけてくれた。ほっとした。(2007.11.3)




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