期待と不安

 物事は必ず両面を持っている。それがどんなに喜ばしいことでも、或いは悲しいことでもその反対の一面を持っている。その反対の面がどれほど強調されるかは、それを体験する本人によるところが大きいように思われるが、さしずめ僕のような物事に対して逃避的で悲観的な人間は、どんなに楽しそうなことでも不安ばかりが先に立ってしまうようである。


 この夏、Jさんとペルーに行くことになった。あちらにいる彼女の家族や友達と顔を合わせ、結婚のお祝いをするのが主な目的ではあるが、クスコ市街やマチュピチュ、ナスカの地上絵など世界遺産でもあるインカ文明の遺跡の観光という楽しみもある。

 ペルーに行ってパーティと観光。普通の人間なら多少の不安はあるにせよ、その不安を覆い尽くすくらいの期待があり、楽しみで、楽しみで仕方ないという感じになるのだろうけど、今の僕は気が重くてうつ気味である。

 何から何まで不安で仕方ない。飛行機に24時間も乗るということも不安なら、アトランタでの乗換えも不安だし、ペルーについてからもJさんの親姉弟たちとうまくやれるのかというもの不安だ。

 さらにJさんの友達とコミュニケーションが成り立つのだろうかということも不安だし、パーティでのダンスも不安だし、あちらにはいっぱいいるというスリや置き引きや強盗にあわないかということも不安だ。

 食べ物は口に合うのだろうか?約3週間という期間、Jさんの家族との間は持つのだろうか?もし街中でもようしたら公衆トイレはあるのだろうか?あー!とにかく心配で心配で仕方ないのだ。


 とちょっと前までは思っていたし、実際かなり憂鬱だった。そのうち、うつ病にでもなるのではないかと本気で思ったり、逃げ出したいような気持ちになり、体の具合も悪くなったりした。ところが不安だ、心配だと思い悩んでいるうちに、どうしたことか少しだけど楽しくなってきた。

 もう、どうでもよくなって来たのだ。飛行機に長時間乗ってエコノミー症候群になっても、Jさんの家族とうまくいかなくても、パーティで恥をかいても、マチュピチュで高山病になっても、街中でドロボウにあっても、どうでもいいような気がしてきたのだ。 不安な気持ちがあまりに強すぎて、精神が疲れてしまい、このような心境になったのかもしれない。何が起きても、自分を切り離して外から眺め、それ自体を愉しんでしまえばいいのだ。そういえば、子供のとき、同じような気持ちになったことがあったような…。


 父から折檻を受けた僕はいつも泣いていた。小学校3年生くらいのとき、もうこれからはどんな折檻を受けても泣くのは止めようと思った。泣くということは父に負けたことになるような気がしたからだ。その方法として、自分の心を切り離すという方法を覚えた。打たれている自分の外に自分の心を非難させてしまい、客観的に自分を見るのだ。そうすると「あんなに打たれて、痛いだろうな」とか他人事のように思えて、もう泣くということはなくなった。折檻されている自分は抜け殻のようなものだから、いくら痛い目にあっても何も感じないというわけだ。


 ただ、今までは逃げることで何とか物事をやり過ごしていたから、今回くらいは立ち止まって格闘してみようか…そんな気持ちも少しあった。(2007.7.14)




皆さんのご意見・ご感想をお待ちしています。joshua@xvb.biglobe.ne.jp

TOP INDEX BACK NEXT