世知辛い世相

 日曜日の1時から放映されているTBSの‘噂の東京マガジン’で役所の昼休み時間が1時間から45分に短縮されたため、職員が外へ食事に出なくなり、付近の飲食店の売り上げが大幅に減少してしまったという放送があった。

 なぜ、昼休みが短縮になってしまったかというと、本来、お昼の‘休憩’時間は労働基準法にならって45分であったのが、午前と午後の慣例としてあったそれぞれ15分の‘休息’時間のうち、どちらかを昼休みに足して1時間にしていたという。休憩時間と休息時間の違いは無給か有給かで、休憩時間は無給、休息時間は有給という区分けになっていたそうなのだけど、この‘休息’時間の悪用が横行して、国民の目も厳しくなってきたため、去年、‘休息’時間の廃止が通知されることになった。これによって昼休みが15分短縮なってしまったというわけだ。

 この放送を見たとき、何とまあ日本は世知辛い世の中いなってしまったのだろうと思った。ここのところ公務員の働きぶりに非難が集中している。民間は血の出る思いでやっているのに、役人はぬるま湯にどっぷりと浸かっていてケシカランというわけだ。だけど、そんなことどうでもいいじゃないかと僕は思ってしまう。‘ぬるま湯’よりも‘血の出る思い’の方がはるかに問題だと思うからである。

 骨を削り、身を粉にして働くことが、尊いことだという観念が未だに幅を利かせている。確かにそれが尊いという場合はあるだろう。しかし、一生懸命にやっている奴がいるのに、一生懸命やっていない奴がいるのは許せないという考えは世の中を息苦しくさせる。そんなことは誰にだって強要することではない。

 何でも民間を基準にして、それに見合わない公務員を攻撃する最近の風潮は、どこか間違っている。攻撃するべきは、怠けている者ではなくて、利潤を追求するばかりに人を機械のように働かせようとする輩ではないのか?怠けて人は死んだり病気になったりすることはないが、働き過ぎによって人は病み、時には死んでしまうのだ。

 昼休みの休憩1時間、10時と3時に15分間の休息、いいことではないだろうか。もう一度、人間らしい働き方というのを考えてみた方がいいと思う。農家に住み込みでアルバイトをしていたとき、肉体労働ということもあるだろうけど、10時前後にだいたい20分くらいの休憩があり、昼休みはだいたい2時間、午後は3時過ぎから30分くらいの休憩があった。午前の休憩時間にはパン、午後の休憩時間にはお菓子とお茶が出た。仕事は肉体的にきついにも関わらず、ストレスを感じることがほとんどなく、精神的に楽だった。

 多くの場合、会社での仕事はこの逆で肉体的にはさほどきつくないが、精神的なストレスが強い。だから、傍目にはどんなに楽そうに見える仕事でも、合間の休息は必要だと思う。馬車馬のように人を働かせる時代は終わった。これからは、仕事を含め人間らしい生活を追求するべきだなどと思っていたら、似たようなことが自分の勤め先で起きてしまった。

 月曜日、全体の朝礼のとき、技術部長がいきなり「実はこの事業所の昼休みの休憩時間は本来45分になっている。しかし、3時の15分間の休憩時間と合わせて1時間にしている。だから、3時から15分の休憩をとっている部署があるようだが、止めてもらいたい」と言った。要は休憩を取らないで働けということらしい。

 昼休みがもともと45分だったということは、比較的古い社員の人でも知らない話だったようだ。恐らく創設当時の就業規則にでも書かれていたのだろう。それにしても今時、‘休憩をするな’ということを堂々と言うとは一体どんな頭をしているのだろうと思った。作業はずっと立ち仕事という場合もあるし、神経を使う仕事もある。休憩も取らずに続ければ、体に影響が出たり、集中力を欠いてミスが増えるような気がする。

 部長が今になって何故こんなことを言い出したのかは不明であるが、普段、部長のいるフロアーで3時からの15分間の休憩のとき、時間が過ぎてもなかなか戻って来ない人がいて怒っていたらしい。それに業を煮やして、いっそ‘なし’にしてしまえということになったという話もある。

 もし、そういうことがあったならば個別に注意するべきで、それを全体責任のようにしてしまうところは如何にも問題である。個別に注意するより、全体責任にした方が影響を大きくし、従業員の引き締めには効果的という判断したのかもしれないが、返ってみんなの反発を買い、自らの小ささをアピールすることになってしまった。

 この部長氏に限らず、最近の日本は「まあ、それくらいは大目に見よう」といった精神が少なくなり、隙間を埋めることばかりに汲々としている。無駄をなくし、効率を上げるということだけに目が行き、気持よく働いてもらうとか、体の具合を気遣うとかいった人に優しい気持ちを失っているように思える。

 「まあ、それくらいは大目に見よう」といった精神は、ある程度社会的な経験を積んだ苦労人に生まれる気持なのかもしれない。経験の少ない者は、どうしても規則に頼らざるを得ない。最近の世知辛い世相は上に立ってはいけない者が、上に立っていることに原因があるように思う。

 物事の何かを知らずに、ここに無駄があるから削ろうというような考えでは余裕のない薄い社会になっていくような気がする。無駄があることより、無駄のない方がはるかに問題である場合もある。 ギリギリの人員で、ギリギリの時間で、ギリギリの予算で…。せせこましい世の中だ。(2007.7.8)




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