身を粉にする人

 繁忙期に入り、職場にも新しい人が次々へと入って来た。子育てを終えた主婦の人たちが中心なのだけど、ひとりだけ40才で独身の男性がいる。その人Wさんは以前、市場で働いていたという。待遇は時給900円で通勤費は支給されなかったそうだ。彼の家から職場までの交通費は月2万円以上かかったというから、生活はかなり苦しかったようだ。

 Wさんは初め市場の仕事が終わった後、17時から出勤して20時くらいまで働いていたが、今の職場は前より時給も高く通勤費も全額支給になるため、市場を辞めこちらの仕事に専念することになった。2週間前に朝から出勤するようになったのだけど、9時始まりなのに、社員のNさんの話しによると8時過ぎくらいにはもう会社に出て来ているという。そして、始業前なのに仕事をしているらしい。

 早く出勤したからといって、9時以降でないと時給は支給されない。しかし、僕がタイムカードを押すくらいの時刻にはもう彼は仕事をひとり始めている。今日の朝も昨日頼んだ仕事を始業前にやっていた。

 仕事を一生懸命に行なうというのは尊いことだと思うが、給与の対象にならない時間までも働くというのは行き過ぎだし、やるべきではないと思う。しかし、こういう人は意外と多くて、去年繁忙期に入った人も昼休みに仕事をしていたりした。

 以前、僕が社員として働いていた会社にも同じような人がいた。彼はアルバイトで入って来た30代の男性だったが、あと5分居れば残業代が付くのに何故かタイムカードを押して帰ってしまうのだ。はじめはバスの時間との関係かとも考えたが、他のアルバイトの話しによると彼は交通費を節約するため、バスを使わず歩いて駅まで行っているという。

 ある日、彼に「何故あと5分待って残業代を付けないのか?」と訊いた。すると彼は「もったいないですから」と言った。僕にはその意味がわからず、こんなことが続くと社員である僕が意識的に指示しているものと思われるからきちんと残業を付けるように言った。

 アルバイトの契約期間が終わったが、彼は他の部署で引き続き残ることになり、やがて正社員となった。情報処理技術者の資格を持っていたこともあるが、真面目な姿勢が高く評価されたからだった。そして正社員になってから、彼の滅私奉公の姿勢はさらに強くなっていった。

 アルバイトの時はせいぜい30分サービス残業をするだけだったが、正社員になってからは夜10時くらいにタイムカードを打ち、その後、朝方までほとんど徹夜で仕事をしていたりすることも珍しくなくなった。

 上司もそれを黙認する姿勢になり、終には他の社員にそのことを宣伝したりした。彼がアルバイト時代に「もったいないですから」と言っていたのは、「会社のお金がもったいない」という意味だったのだ。

 大多数の社員はそんな彼に冷ややかであり批判的だったが、長い目で見た場合或いは強かな計算をしているのかもしれないと僕は思った。今時点の利益を考えれば自らサービス残業をしているわけだから損だけど、上司がそんな献身的な彼の姿勢を評価しているわけだから先々有利に働く可能性は高いといえる。そのような計算を彼がしてないとしても、結果的に出世レースに影響する可能性は多いにある。

 恐らく会社というところはそんなところなのだろう。普通にしていてはだめであり、他人が眉をひそめるような行為でも堂々と行なえる人間が力を持つ存在になるように思う。今回入って来たアルバイトの男性もあるいはそんなことを考えているのかもしれない。(2006.10.18)




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