日の戯れ

 漫画家のつげ義春さんの作品に「日の戯れ」というのがある。あまり売れていない漫画家である主人公の仕事が途絶え、家計を助けるため妻が近くにある競輪場の車券売りの勤めにでる。妻は彼に、「さみしいから一度仕事場に来てよ。窓口に手が入る穴があるから、何か目印になるもの…、そう手に包帯をして来て。あなたとわかったら握ってあげるから」と言うが、彼は「今さら握ってもらわなくも」と拒む。

 ある日、気が進まないイラストの仕事を断る口実として主人公の漫画家は手に包帯をして‘腱鞘炎’ということにする。その打ち合わせの帰り、たまたま隣りの奥さんと出くわしてしまい、手の包帯を見られてしまう。彼女から自分の妻にその包帯のことが伝わることを考え、彼は妻が働いている競輪場に車券を買いに行く。そして、包帯を巻いた手を、その窓口に入れる。

 …

 金曜日、仕事は暇で午後からずっと機械のメンテナンスを行なっていた。一度に多くの部分を行なおうとしたため5時では帰れなくなり、1時間ほど残業になってしまった。明日は休み、外は夕暮れ時の気持ちいい風が吹いていて、そして何より1時間残業して帰りが6時になったことで、僕は自分の‘日の戯れ’をしたくなった。

 日系ペルー人のJさんは5時に会社を退社した後、近くのスーパーでレジのバイトを6時から11時までしている。スーパーのレジ係に手を握ってもらうわけにもいかないだろうけど、そこに買い物に行こうと思ったのだ。前々から機会があったら行くよと言ってあるから、Jさんも驚かないだろうし、何より仕事でかなり汗をかいたため塩っけのあるもの、そうポテトチップスなんかを食べたくなってしまったのだ。

 陽が落ち、薄暗くなった街路をJさんが働いているスーパーに向って歩いた。この辺りは中国人が多いからか、中華料理屋さんが点々とあり、その看板の光が鮮やかに暮れかかった街並みに映えていた。ちょうど会社が終わる時間ということもあり、買い物袋を下げて歩いている会社員やOLが多かった。

 Jさんがバイトしているスーパーは会社から数分のとこをにあるため、僕がスーパーの前に着いた時、ちょうどJさんがエプロン姿の制服に着替え、持ち場のレジ台に走っていく姿がドア越しに見えた。

 入口はJさんが担当しているレジからは死角になっているため、僕は彼女に気付かれずスーパーの中に入ることができたが、初めてなので何処に何が売っているのかが、よくわからない。結局、目的のポテトチップスを探し出すまで、それほど広くない店内をほとんど一周してしまった。

 買う物がポテトチップスだけというのも、気が引けてサキイカもつけることにした。その2点を持ってJさんのレジの前までいったが、彼女は前のお客さんに気を取られていてなかなか僕に気付かない。そのお客さんは腰の曲がったかなり年配の女性で、つり銭を財布に入れるのに手間取っているようだった。それをJさんは心配そうに見ていたが、何となく存在感を出そうとした僕にやっと気付き、「あっ!ちょっと、待ってね」と言った。僕は無言でうなづいた。

 お婆さんがやっとレジの前から離れると、恐らくマニュアルで決められているのだろう「こんばんは!いらっしゃいませ!」と元気よく言い、そのあと小さな声で笑いながら「煩いね」と言った。

 「お願いします」と僕はポテトチップスとサキイカを彼女に渡し、財布からぴったりになるように小銭を出そうとしたが1円足らず、結局100円玉と50円玉で支払った。Jさんはレジを打ちながら「今日は疲れた」と言った。というのは、ちょっとしたミスから大事になっていて、その原因が彼女だった可能性があるからだった。

 僕は何も言わず、ただ微笑んだ。「24円のお返しです」とJさんが言った。「ありがと」と僕はお釣りを貰った。「バイバイ」とJさんは微笑んだ。僕は、レジ袋に入ったポテトチップスとサキイカを持って店を出た。

 ちょっとした時間だったけど、外はかなり薄暗くなった気がした。レジ袋をバッグに仕舞いながら、僕は駅に向かった。(2006.4.22)




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