知らない街

 知らない街を歩いてみたくなり、日系ペルー人女性のJさんを誘って東急田園都市線のTまで行ってきた。何故、東急田園都市線のTだったのかというと、昨年の12月下旬にJさんが日本語能力試験を受けた会場となったK大学のキャンパスがここにあった。試験終了後にちょっとだけ歩いた街並みがきれいだったので、いつかいっしょにまた来ようといっていた。

 雨が降り出しそうな昼下がり、僕たちはT駅に下り、線路沿いの道を東に向って歩き始めた。歩き始めて数分で雨が落ちて来た。Jさんは部屋を出るとき雨が降っていなかったので傘を持ってこなかったという。僕のそれほど大きくない透明なビニール傘にふたりで入った。

 駅からしばらくはいろいろなお店が並んでいたが、坂道を上り始める頃から辺りは住宅街に変わっていき、薄暗い雨空の下、くすんだ街並みが前方に広がるだけになった。雨は少し強くなって、透明なビニール傘の上を流れ落ちる水滴が肩を濡らす。

 坂を上り切ったところで左に折れたが、どうも曲がるところを間違えたらしい。住宅街の中に寂しい下り坂があるだけだ。坂を下り終え、また左に曲がると辺りは宅地が広がるだけになった。その中にぽつんとある公園が寂しい。

 「どうも道を間違えたらしい」と僕がいうと
「あそこに何か建物が見えるよ。あれ駅の近くにあった建物じゃない」とJさんがいった。そんなはずはないのだけど、とりあえずそれを目印に歩いてみる。しかし、それはやはり関係ない建物だった。
「道に迷ったね」とJさんがいった。だけど、不安そうな感じはなく、何処か楽しげである。
「大丈夫、こっちにいってみよう」と僕は誰もいない公園の脇の道に入るが、それはいつしか公園の裏側に回り込んでいて、何処にも出口がなく、また公園に前に戻ってしまった。
「方向音痴ね。あっ!あそこに歩いている人に訊いてみて」とJさんは僕たちの方向に向って歩いてきている黒い傘を差し、紺の野球帽をかぶってスエットを着た老人を指差した。

 「あの、T駅まではどうやっていけばいいんでしょうか?どうも道に迷ってしまったみたいで」と僕はその老人に声をかけた。
「何処から来ました?」T駅から来たとはいえない。
「あの、あっちの方向からです」といって誤魔化した。
「そう、何でこんなところを?ずいぶんと方向が違いますよ。ひょっとして方向音痴ですか?」老人は穏やかな声でいった。僕の方向音痴を知っているJさんは笑いを噛殺している。
「あー、まあ、そうかもしれません」
「それにしても、どの駅で下りたんです?」と老人もなかなかしつこい。
「S駅です」とT駅のひとつ手前の駅をあげた。
「Sからですか?…」と老人は田園都市線沿線の駅名を次々とあげていった。

 「ちょっとわかりづらいから、駅まで案内してあげましょう。私も健康のため歩いている最中でしたから」と老人は歩き出した。僕とJさんもひとつの傘に寄り添いながらその後に続いた。老人がこっちを見ていった。
「仲がよくてうらやましいですな」
僕たちはふたりで顔を見合わせた。
「ちょっと小便をしたくなったので、ちょっと離れたところで待っていてください」と老人はいい、道端に寄るとこちらに背を向けて放尿を始めた。僕らは少し離れたところで佇んでいた。

 「大丈夫かしら?」とJさんがいった。
「大丈夫だろ。どうみても地元の人だぜ。ちょっと変わっているかもしれないけど」と僕は応えた。
「お待たせしました」と老人はこちらにやってきた。そして、また3人で歩き出した。少し歩くと工事用の鉄製のフェンスがあるところに出た。
「ここを抜けられる早いんだが…」と老人はいい、そのフェンスの横に周り込んだ。僕たちもその後に続いた。
「あ、行けますね」とうれしそうな老人の声がした。フェンスを抜けると視界が一気に開け、比較的大きな公園が目の前に現れた。
「この公園は、U公園ですか?」と僕が訊くと
「名前はわかりません」と老人は無表情にいった。
「ここがU公園だったら…。ほんとはこの辺りを散策するつもりだったんです」と僕は独り言のようにいい、公園の名前の入ったプレートを探したのだけど、結局その名前はわからなかった。

 その公園の横の道をしばらく歩いていくと、いきなり両脇にお店が並んだ商店街に出た。
「この辺で何か食べよ」とJさんが小声で僕にいった。しかし、いきなりそのことを老人にいって別れるのも気がひけた。どうしようかと思っていると
「私、万歩計をつけているんです」と老人はJさんにその数字を見せた。
「一万歩、超えてる。すごいね!」Jさんは驚いたような声をあげた。
「いえ、いえ、そんな大したことありません。一番歩いたときには7万歩超えましたから。私の一歩は70cmなんです。ちょうどこのくらいです」と側溝のコンクリート1ブロックの横幅を示し、
「それで計算するとフルマラソンを完走したくらいになるのです」と得意げにいった。

 「雨は止みましたね」と老人が空を見上げながらぽつりといい、傘を閉じた。そういえば、止んでいるような気もする。僕も傘を閉じたが、顔に冷たいものが時折当る。雨は完全に止んでいなかったのである。Jさんと顔を見合わせたが、彼の手前いまさら傘を広げるのも気が引け、そのままで歩いた。

 少し歩くと目の前に交通量の多い道路が見えた。
「わかりました。あれが駅前の道ですね」と僕は老人に尋ねた。
「そうです。わかりましたか?」と老人が応えた。
「わかりました。ここまでくればもう大丈夫です。ほんとにありがとうございました」
「ありがとう」とJさんもいい、僕たちは老人に頭を下げた。
「いえ、いえ、こちらこそ愉しかったです。それでは、気をつけて」と老人はいい、駅の方向に早足で歩き去った。僕たちは回れ右をして、来た道を引き返した。そして、閉じたままだった傘を開いた。雨はやや強くなっていた。

 少しいったところに、感じのいい喫茶店があるので入った。僕の右肩と、Jさんの左肩は雨に打たれてかなり濡れていた。Jさんは壁際に、そして僕はその向いに座り、彼女はカプチーノとレアチーズケーキを、僕はカプチーノとチーズケーキを注文した。

 席の横にいくつかの写真集が置いてあり、そのうちのひとつを彼女が手にとり、眺め始めた。その写真集を何気なく覗いてみて驚いた。それは前田真三が北海道の美瑛の風景の四季を写したものだった。

 僕は夏になると必ずといってよいほど北海道を旅してきた。そして、その中には当然、美瑛も含まれていた。そして、その美瑛には拓真館という写真ギャラリーがあり、そこに前田真三の写真が展示されているのだ。

 偶然、入った喫茶店で、偶然、Jさんが手に取った写真集が美瑛の丘を写したものだったことに静かな感動が胸の中に起こった。僕は彼女といっしょにその写真集に見入った。流れる時の中で自然の一瞬の美しさを見事に定着させたものだった。その一瞬を捕らえるために、多くの時間が過ぎ去っていったのだろう。或いは人生でも同じようなことがいえるのかもしれない。ひとときの美しさを獲得するため、日常という時間が過ぎ去っていく。

 Jさんは夢を見ているような目をして、「きれいね」を連発していた。彼女がレアチーズケーキを食べてもいいというので少しもらい、僕のチーズケーキも分けた。チーズケーキの方がおいしいと彼女はいったけど、僕にはどちらも同じくらいおいしく感じた。

 「Hさん、そろそろ出よ」とJさんがいうので、外に見るともう真っ暗になっていた。冬の陽はほんとに短い。
「じゃー、出ようか」と僕たちは喫茶店を出た。外はまだ雨が降っていた。僕は透明なビニール傘を広げ、彼女を入れた。
「Hさん、歩かない?」と彼女はいった。
「寒いよ。それに真っ暗だし」と僕がいうと
「でも、歩かない?」とまた彼女はいった。
「歩こうか」と僕は応えた。僕たちは体を寄り添いながら、また目的もなく歩き出した。(2006.1.15)




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