悲しい酒

 いっしょの職場で働いていた契約社員の人が突然、営業部に移動になってしまった。あまりの急な人事に驚いたのだが、その人も50代半ばの今までずっと技術畑の仕事をしていただけに、かなりの戸惑いがあったようだ。何故、そういうことになったのか…、予兆のようなものはあった。

 その人、Yさんはリーダーとの折り合いがかなり悪かった。今のリーダーは、僕から見てもかなり陰険な人で、あまり人の気持ちを斟酌するといったことがない。したがって、自分と肌の合わない人に対して、かなり冷淡な態度をとる。Yさんは、ここのところというより、かなり前から干されたような状態になっていた。何か仕事をしようとしても、そのリーダーが出て来て、「それは誰某にやってもらうからいい」とYさんを排除するところを僕は何回も見てきた。

 そして、いつのまにかYさんは、裏の仕事や同じ階に入っている他の部署の手伝いが、ほとんどとなっていた。何もすることがなく、寂しそうなYさんの姿がよく見かけられるようになり、パート仲間でもそのことが話題になったりしていた。


「今、お帰りですか?」
「うん」
金曜日午後6時半、仕事を終えた僕は、エレベータの前でたまたま営業に移って数日が経ったYさんと出会った。
「これから何か用事ある?」
「別にありませんけど」
「よかったら、近くでちょっと飲まない?」
「いいですよ」
 僕とYさんは連れ立って、会社の向かい側にある居酒屋に入り、僕はライムサワーを、Yさんは生ビールを注文した。厚焼きや焼き鳥セットなどを摘みながら、当然、この突然の移動のことが話題の中心となった。Yさんも誰かに、自分の気持ちを聞いてもらいたかったのかもしれない。そして、事の真相が見えて来たのである。


 リーダーのあまりに酷い扱いを、Yさんは課長に訴えた。課長はYさんと同年代で、仲もいい。Yさんの訴えを聞いた課長は、リーダーにそのことを直言したようだ。しかし、リーダーはその訴えを聞いて自分の行為を反省するどころか「また、Yが課長に泣きついた」とさらに悪感情を募らせ、ふたりの関係は修復不能のところまでいってしまったようだ。その時、たまたま営業部に欠員が生じたので、課長もこのまま「Yさんに辛い思いをさせるよりは…」と考え、今回の急な移動に繋がったとのことだった。

 Yさんによると、リーダーから契約社員という弱い身分を見透かしたようないやがらせが結構あったらしい。「休みが多すぎる」「仕事の準備が遅い」「大人なんだから我慢しろ」等、よくわからないことで怒られたという。Yさんは日曜日も隔週で出勤していた。その代休として平日、たまに休む程度で決して「休みが多すぎる」ということなかった。

 「仕事の準備が遅い」というのも、朝礼が長引きそれによって朝の準備が5分程度遅れたときのことで、社員の人が遅刻してしまい朝の準備が遅れたときは何も言わないのだから、Yさんがやりきれない気持ちになるのは当然のように思う。


「もう、切れる寸前だったんだよ。次に何か言われたら、爆発してたよ」
Yさんがぽつりと言った。他にも理不尽な文句をいろいろ言われたYさんの辛さが伝わってきた。切れる前に移動になったのは、ほんとに幸いだった。もし、切れていたら、恐らく「移動」ではすまなかっただろうから…。
「毎日、牢獄にいるようだった」
「そんなに辛かったですか?」
「うん」
「そうかもしれない。僕もそんなふうに感じることがあります」
蛸の唐揚をつまみながら、僕たちはしんみりしてしまった。
「営業はどうです?といってもまだ数日ですけど」
「人生が変わったよ。今までは、もらって来た仕事をするほうだったけど、今度は仕事を受けてくる立場だから。180度違うよ」
Yさんは何杯目かの生ビールを、喉に流し込んでいた。
「1日が早いよ。あっという間だよ。ほんとに、あっという間」


 そこには悲しい響きがあった。Yさんの性格は明らかに営業向きではなく、技術向きだし、50代半ばまでずっとやってきた仕事に愛着がないはずはない。仕事自体は、今までの方が絶対によかったのだ。リーダーがもっと人の気持ちがわかる人だったら…。

 リーダーのYさんに対する態度は明らかに、人が人に対する節度を逸脱していた。しかし、会社というやつはいつでもこのような問題で溢れかえっている。何故、会社の中では人が人に対して、このように酷い態度がとれるのだろうか?それは、恐らく仕事という麻薬によって感覚が麻痺してしまっているからのように思う。

 普段は人を殺すことなど思いもしなくても、兵士となり戦場に赴けばやがて平気で人を殺せるようになるのと同じで、会社員となり仕事という名目を与えられれば、それによって人を踏みつけようが、傷つけようが、ないがしろにしようが構わないという錯覚に陥ってしまうのかもしれない。


 11時過ぎ、明日も仕事というYさんのことを考えて店を出た。
「明日も車を運転しないといけないんだから、二日酔いなんてできないよ。命がかかっているんだから」とYさんは笑った。
(2005.6.5)




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