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 新年の仕事が始まり、同じフロアーで働く女性が新年初となる仕事上での失敗をしてしまった。彼女は昨年から同じような失敗を繰り返しており、「今年こそは…」と心に誓っていただけに、かなり落ち込んだ。ただ、失敗といっても、それほど大したものではなく、「そんなに気にしなくても…」と慰めたが、「同じ失敗を続けている」ということが許せなかったようだ。

 しかし、仕事をする限り、失敗から逃げることはできない。それは野球を続ける限りエラーや三振から逃げられないのと同じことだ。逆にいえば、エラーや三振をするということは、野球をやり続けているということであり、その数が多ければ多いほど長い間第一線で働いてきたという証拠だ。それは仕事についても同じだ。ある人は彼女に対して、「君が一番やっているんだから、失敗が多くなるのは仕方ないことだ」と言った。

 僕も以前に勤めていた会社で失敗を連発したことがあり、仕事をするのにかなりの重圧がかかったことがあった。端的にいえば「失敗を恐れて、仕事をするのが怖くなった」のだ。そんな僕の心理を見透かした上司は「どんな失敗をしたって、それで人が死ぬわけでもない。医者が失敗したら患者は死んでしまうけど、私たちの仕事はどんな失敗だって、お金だけの問題なんだから」と言ってくれた。それ以来、僕の神経はかなり図太くなって、失敗をあまり恐れない体質になった。それは、それで会社にとっては迷惑だったかもしれないが…。

 人生でも同じようなことがいえるかもしれない。僕には弟がいるが、弟が10代の後半の頃大喧嘩をしたことがある。それは失敗に対する考え方の違いよることでの意見の衝突だった。当時、弟は少なくても僕には無気力に思えた。今でいうニートというものに限りなく近かった。せっかく入学した専門学校を数ヶ月で辞めてしまい、かといって働くわけでもなく、それこそ家でぶらぶらしていた。今、考えればどうしていいのかわからず、迷っていた時期であり、本人が一番辛かったのだろうが、当時の僕には他者に考えを及ぼすという気持ちがなく、弟を一方的に責めた。

 その時、弟は「兄貴だっていつも失敗ばかりじゃないか。人のことが言えるのか」と反論してきた。弟は「失敗するくらいなら、始めからやらない方がまし」という考えだったのだ。「どうせ失敗するのだったら、努力した分だけ損になる」と思っているようだった。僕は「どうせ失敗するなら、やるだけやって失敗した方がいい」考える性質だった。「何もしなければ、当然失敗することもないだろう。だけど、失敗しないということが、そんなに重要なことなのだろうか?失敗しても、その間にした努力や苦労は消えない。それで得るものはあるだろうし、いつしか生きてくることもあるのではないだろうか」ということを僕はかなり乱暴な言葉を使って弟に叩きつけた記憶がある。それが通じたのかどうかはわからないが、数ヶ月後弟は小さな印刷会社に就職した。

 恋愛だって、告白しなければ失恋することもないだろう。だけど、告白なくして、愛を得られないこともまた確かなのだ。そこで後悔の気持ちが強く残るか、やるだけはやったというある種の満足感が残るかは、その時どれだけ努力をしたかということによるように思う。

 確かに弟に言われたように僕の人生は失敗の連続だ。それは今でもそう変わっていない。失敗に失敗を重ねれば、マイナスはどんどんと増えていく。マイナスにマイナスを足してもマイナスに変わりはない。しかし、その失敗を自分の中で消化し、マイナスにマイナスを乗ずることができれば、数学の世界のようにプラスに転じることもあるのではないだろうか。

今日も彼女は出勤して、同じ作業を黙々とこなしている。(2005.1.8)




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