想像してごらん

 今年、日本列島に上陸した8個目の台風21号が、西日本を縦断している頃、東京でもかなりの雨が降っていた。仕事を終え、最寄り駅からアパートに向かう道は、雨水がかなり浮いていて、靴の中に侵入してきて、かなり濡れてしまうくらいだった。表通りから、狭い路地に入ると、反対側から車がやってきた。その車は裏通りにもかかわらずかなりの速度で走ってきて、僕の横を通り過ぎるときもスピードを落すことはなかった。そのため、路面に溜まった雨水が僕のズボンに思い切りかかってしまった。その車の運転手は、そんなこと全く気づかなかったようで、そのまま表通りへと走り去っていった。

 運転手はかなり激しい雨が降っていることをわかっている。さらに道路に水が浮き始めていて、所々水溜りができていることもわかっている。その道路の端を人が歩いていることにも気づいている。しかし、スピードを落さないで人の側を通り過ぎれば、車が水を跳ね上げ、その人の衣服を濡らし、いやな思いをさせるということを想像することができなかったのだ。

 数年前、北海道をバイクで旅行したとき、釧路湿原の近くにあるコッタロ湿原に行った。今はどうだかわからないけど、当時、コッタロ湿原への道は舗装されていなかった。僕はオフロードバイクに乗っていたが、ダートにあまり自信がなく、疾走するというには程遠い状態で、トコトコと走っていた。そうすると反対側から人が歩いてきた。そして、僕のバイクとすれ違うとき、かなり丁寧にお辞儀をされた。だけど、僕には何故そんなに丁寧にお辞儀をされたのかわからなかった。その理由がわかったのは、コッタロ湿原を見学して帰路に着いてからだった。

 コッタロ湿原への道は、道幅の広い砂利道だったので、車も多数侵入してきていた。侵入してくる車またはバイクはかなりのスピードで走っていた。そしてその後にはもうもうと砂塵が立ち上がっていた。その歩きでコッタロ湿原に向かった旅行者は、何台もの車やバイクとすれ違うたびに、砂塵を頭から被っていたに違いない。そこにあまりスピードを出していなかった僕のバイクが通りかかった。彼は僕が気をつかい、砂塵が舞い上がらないように速度を落としてくれたと思ったのだろう。感謝の気持ちがあの丁寧なお辞儀になったのだ。

 しかし、僕は決して彼のことを考えてゆっくり走っていたわけではなかった。速い速度でダートを走るテクニックがなかっただけなのだ。もし、僕にそれだけの技量があったら、スピードを出していたと思う。僕には砂塵を被らされることになる歩行者に対して想像力がなかったのだ。自分のバイクを猛スピードで追い越していった4WD車が立ち上げた砂塵を被ることによって、初めてその辛さに気づくことができた。

 僕が子供の頃は、雨の時、ほとんどのドライバーが人の横を通り過ぎる場合、速度を落としていたように思う。車を持っている人よりも、持っていない人の方が多い場合、当然、車で水を引っ掛ける人よりも、車に水を引っ掛けられる人の方が多い。その車に水を引っ掛けられた人が車を所有してドライバーになったとき、その痛みを知っていることになる。したがって、雨の日に人の横を通り過ぎるとき、速度を落として水を引っ掛けないように配慮するようになる。

 今のように裕福になり、車を持っている人の割合が高くなると、雨の日、車に水を引っ掛けられるといった経験をする人も少なくなり、ちょっとした配慮もできなくなっているような気がする。しかし、自分が痛い目にあったことがないからといって、気が回らないといった問題ではない。他者に対する想像力が欠落してしまっているのだ。

 もちろん、これはほんの一例に過ぎず、世の中にはこんなことがいっぱいある。そして、みんながちょっとしたことでも想像できなくなっている。想像とはクリエイティブなことばかりではなく、他者を思いやることもある。

 ちょっとしたことだけれども、これが今の日本という国を象徴しているような出来事に思える。ただ前へ、前へと、周りで苦しんでいる人たちへの配慮も思いやりもなく、弱いものを切り捨て、スピードを落さず突き進んでいる。

 いったん立ち止まって、自分の周りを見回してほしい。そして、どんな顔の人がいるかを見てほしい。そして想像してほしい、自分のやっていることで傷ついている人がいないのかと…。(2004.10.02)




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