惰眠は快感

 金曜日、知らない間に目覚まし時計を、解除していた。急いで仕度をすればまだ仕事に間に合う時刻だったけど、異常に疲れを感じて、9時に「今日はお休みします」と会社に電話を入れた。そして、再びふとんに入って、午後の5時まで飯も食べずに、途中に何回かトイレと水飲みに起きた以外は、ずっと寝ていた。

 夕方起きたときは、すっきりという感じには程遠く、体はだるく、背中が痛くなっていた。頭もぼんやりで、思考力はほとんどゼロといった感じだった。何でこんなに疲れているのだろうと考えたが、よくわからない。3人も人が辞めてしまったため、仕事が忙しかったせいかもしれないし、新しい人が入って来て気を使ったせいかもしれない。或いは、夏の疲れが一気に出たのかもしれないし、その全部かもしれない。

 それにしても前々から、何となく思ってはいたが、惰眠を貪るというのは気持ちいい。起きてからはだるくて最低だけど、寝ている間は最高だ。特にまどろんでいる半覚半醒の状態のとき、何ともいえない気持ち良さがある。時間の感覚が狂ってきて、何処か別の次元に落ち込んでしまったような感覚になる。意識が現実の世界と夢魔の世界をいったりきたりする。気がつくと、あまり時間が経っていないようでも、平気で3時間くらい進んでいたり、その逆もある。或いは「邯鄲の夢」とかも作者のこのような状態の経験から書かれたものなのかもしれない。一生これですんでしまうのなら、それでもいいような気にさえなってくる。

 しかし、そういった体の気持ち良さとは別に、頭には怠惰な自分に対する嫌悪感も起きる。会社では皆、一生懸命に仕事をしているのに、自分はふとんの中でうつらうつらしているなんて…という罪悪感に襲われる。だけど、会社に行って仕事をすることはいいことで、ふとんの中でうつらうつらしているのは悪いことって誰が決めたのだろう。よく考えれば、そんなのどっちが大切でもいいような気がする。

 僕がふとんの中で怠惰な1日を過ごしたことに罪悪感を覚えたのは、そう教育されたからだ。勤勉は美徳で、惰性は悪徳…。だけど、今の世の中、勤勉といったって、そのほとんどが金勘定のためなのではないか?仕事など、そのほとんどが金儲けが目的なのだ。昔、どこかのTV番組で「家庭のことより、仕事がしたい」といった女性に対して、ある人が「仕事なんてただの金儲けじゃないか。そんなことよりも子育ての方がずっと面白く、崇高だ」と発言していたが、全くその通りだと思った。

 惰性が悪いということになったのは、「時は金なり」という会社の論理が、いつの間にか生活に入り込み、僕たちをその論理が縛りだしたからだ。だから単純にお金になることは偉くて、お金にならないことはくだらないことになってしまった。だから仕事を失い失業者をいう状態になると、自然と気持ちが辛くなる。

 何に価値を見出すかということは全く個人的な問題であって、それが惰眠を貪ることでも、河原でぼーっとすることでも、いいように思う。まずは自分を縛りつけている誤った教育から解放されないといけないのかもしれない。自由というのは、ただ自由になる時間が多いということだけでなく、物事からの、ひいては自分からの解放ではないだろうか。

「思い煩うな、空飛ぶ鳥を見よ、播かず、刈らず、蔵に収めず」といったキリストは、大したものだと思った。(2004.9.19)




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