虫の棲家

 本日、土曜日、会社に出勤した。今の仕事になってから、土曜の出勤は初めてだ。私は土・日・祝がお休みの契約になっているのだけど、出勤予定の社員のひとりがどうしてもはずせない用事があるとかでお休みすることになり、前もってこの土曜日を代休に当てていた社員もひとりいて、さらに土曜日出勤のパートの人が他の仕事をしなくてはならなくなりと3重に不幸な偶然が重なってしまい、その波紋が私まで広がってしまったというわけなのだ。私は人情に弱いところがあるので、「頼む、頼む」と懇願されると、断れなくなってしまい、ほんとはあまり出勤したくなかったのだけど、「まあ、お金にはなるし、競馬に行って負けるよりましか」と自分を納得させた。

 久しぶりに乗った土曜日の通勤電車は想像通り空いていて、いつもはぎゅうぎゅう詰の車内も、今日だけは座ることができたが、ダイヤも土曜日用になっていたため、なかなか乗り換えの電車が来ず、来ても途中で車庫行きになってしまったりして、会社に着いたのは9時2分前というぎりぎりの時間になってしまった。もし、また土曜日が出勤になったときは、気をつけなくてはいけないなとタイムカードに打印された時刻を見て、思った。

 仕事は、予想したように暇だった。こんなにのんびりした気分で仕事ができたのは久しぶりだった。今までもそうだったのだけど、休日出勤した日というのは、どうも仕事をしていても、気持ちが入らず、遊び気分が半分という感じになってしまう。人が少ないというのも、その気分を後押しているのだろう、いらない緊張が少なくていい。

 昼休み、外に出てみると、気持ちいい風が吹いていて、雨も降りそうな感じはなく、かといって太陽がカンカンに輝いているわけでもなく、過ごしやすそうだったので、コンビニでおにぎりとお茶を買って、会社近くの公園で食すことにした。木々が木陰を作ってくれているベンチに腰掛け、シャケと昆布とネギトロのおにぎりをぱくつき、お茶で和み、食後はバッグを枕にしてベンチに横になった。そして、何気なく空を見上げると、高層マンションが私に襲いかかってきた。

 その公園はその高層マンションに隣接している公園なので、寝転べばそれを仰ぎ見る形になってしまうのだけど、それにしてもそれはグロテスクな建築物だった。くすんだ茶系の色のせいかもしれないけど、とても人間の住む建物には思えず、まるで、虫の棲家のように私には思え、どのような生物があの中で生息しているのかを考えたら、いたたまれない気持ちになった。

 以前にこれと似たような構造物を見た記憶が甦ってきた、それはシロアリの巣だった。大地にこんもりと円錐形をした塔が作られていて、それがシロアリの巣だった。巣の中は細かいいくつもの部屋に分かれていて、空調のことなども考えられていて、非常に機能的・効率的にできている、ひたすら実用的なもので、まるで高層マンションだった。彼らの巣が、高層マンションのようなのではなく、高層マンションが、彼らの巣のような作りになったのだ。

 下から見上げた高層マンションは人間の進化というよりは、退化を象徴しているように私には思えた。現代の集合住宅には昔の日本家屋のような繊細さ、優雅さ、粋なところなど微塵もなく、狭いスペースにできるだけ多くの人を住まわそうというマクロ的な効率性しか感じることができない、まるで蟻か蜂の巣のように…。

 地上30階はあるであろうそのマンションの細かく分かれた1部屋、1部屋のベランダを見ていたら、私は怖くなってきた。あのようなところに住んだら、上下、左右、壁で囲まれた部屋が迫ってきて、私を押し潰してしまい、蟻や蜂の幼虫にような芋虫になってしまうような感覚に囚われた。

 仕事も早く終わり、帰りの電車で窓から流れる風景や、駅での人の流れを見ていたら、人が虫のように見えてきた。そういえば手塚治の「火の鳥」の中でそんな話があった。あれは確か、人間が気持ち悪い化け物に見えて、ロボットが美しい人間に見えるという話だったっけ…。

 私たち人間は哺乳類というより、ある意味、昆虫に近いような気がする。昆虫は機械的でシステマテイックで社会性が強く、情感は全くない。現代人は非常にそれに近くなっているような気がする。人間が虫化してきたから、居住感覚もそれに近くなり、高層マンションを作るようになったのかもしれない。そして、近年その傾向はますます強くなり、グロテスクな建物が次々を建築されている。未来にはどのような得体の知れない集合住宅が出現するのだろうか?(2004.6.12)




皆さんのご意見・ご感想をお待ちしています。joshua@xvb.biglobe.ne.jp

TOP INDEX BACK NEXT