カタコトの魔力

 今週から同じフロアーで働いている中国人の陳さんが1時間遅れの10時出社になってしまった。どうも会社の経費削減の一環らしい。その陳さんから木曜日の朝のゴミ出しを頼まれた。何故、陳さんが僕にゴミ出しを頼んだかという経緯は以下のようなことでだった。

 陳さんの働いている部署は仕事の性質上、かなりの量の紙ゴミが出てそれなり重さになるため、女性の力で運ぶのは大変だった。陳さんともうひとりの女性ふたりで4階から1階のゴミ置き場まで運んでいたのだけど、あまりに大変そうだったので僕が自分の部署のゴミを出すついでに持っていったことがあった。それが何回か続いて、いつしか僕が陳さんのところのゴミも下ろす役割になってしまった。

 今までは集められたゴミを4階から1階のゴミ置き場まで運ぶだけだったのだけど、陳さんが10時出社になってしまったため、今度はゴミを集めて大きなビニール袋に入れるところからやらなくてはいけないようだ。

 朝は何かと忙しいのだけど、陳さんにカタコトの日本語で
「ゴミ、オネガイネ」
などと頼まれると、他の仕事はうっちゃっても、それを最優先でやらなくてはいけないような気持ちになってしまった。そういえば、これと似たような気持ちなったことがあったのを思い出した。

 以前に仕事が暇だった時期に陳さんの手伝いをしたことがあったが、言葉があまり通じないため、陳さんのやっていることを見て覚えないといけなかった。そのため、いろいろな失敗をしてしまい、陳さんに
「ダメネ」
と諦めたようなやさしい遠い目つきをされて、言われたことがあったけど、そのときはほんとに自分はだめな男なのだと思ってしまい、いたたまれない気持ちになってしまったことがあった。しかし、後でよく考えてみれば、ほとんど何も教わらず見ただけでやろうとしているのだから、失敗するのは当然で、カタコトによって僕の心が大きく動かされているように思えた。そう考えると思い当たるふしがないわけでもないことに気づいた。

 僕が20代の前半の頃だったからかなり昔の話になってしまうけど、「片翼だけの天使」という映画を観たことがあった。この映画は生島治郎の同名の小説を映画化したものだ。生島治郎が自分の体験を小説にしたもので、あらすじはある中年の作家がソープランドに通ううちにそこに勤める韓国人のソープ嬢との間に愛が芽生え、数々の障害を乗り越え結婚するというものだ。映画では中年作家の役を二谷英明が、韓国人のソープ嬢の役を秋野暢子が演じていたように思う。当時、僕と友人はこの映画にはまってしまった。その理由はふたりとも同じだった。それは映画の中で秋野暢子演じる韓国人ソープ嬢が使う「カタコト」だったのだ。
「アナタノコトアイシテルヨ」
「アナタスキヨ」
などと舌足らずのカタコトで言われると、胸の中に愛おしさが込み上げて来て、スクリーンの中の韓国人ソープ嬢を思いきり抱きしめたい衝動に駈られた。僕といっしょにその映画を観た友人はしばらくの間、彼女の使うカタコトのマネをして余韻に浸っていたのだった。

 比較的最近の出来事で思い当たるのは青森県住宅供給公社の巨額横領事件で捕まった千田受刑者のチリ人妻のアニータ・アルバラードさんだろう。ひとりの男に14億円もの金を横領させた彼女の魅力は何処にあったのだろう。もちろん、それにはいろいろな部分があっただろうが、僕にはそのひとつに彼女の使う「カタコト」の魔力があったように思えてならない。

 日本人は微妙な陰影を含んだニュアンスを伝えることに長けている。物事をはっきりと言わず、微妙な言いまわしや態度で相手にわからせようとすることが多い。しかし、「カタコト」というのは素朴で簡素な語彙を並べたものだ。日本人はその単純で明快な意思の伝達方法に免疫を持っていないように思われる。単純な言葉は心を無防備な状態にしてしまう。そしてそれはその単純さとは裏腹に、いや単純だからこそ心に沁みてくるのではないだろうか。

 しかし、「カタコト」はただ単純な語彙の羅列だけではないようにも思える。その背後には外国の言葉をまだ思うように話せないという舌足らずな幼さがあり、それでいて言葉をいっしょうけんめい話そうとしている健気さもあり、母国の親しい人達と離れて頼りになる人がまわりに少ないという切なさがあり、異国の地で暮しているという危うさとしたたかさがある。言葉の裏側を読み取る能力にすぐれている日本人はあるいは「カトコト」の微妙な陰影の部分を無意識のうちに感じてしまうのかもしれない。

 単純な言葉でのコミュニケーションに免疫がなく、その単純な言葉の背後にあるものを感じとってしまう日本人が「カタコト」に弱いのは仕方ないことなのかもしれない。もし、自分が千田受刑者を同じ立場にいたら、「カタコト」の魔力に負けて同じようなことをしたかもしれない。いや、すでに他の仕事はうっちゃって、陳さんのゴミ捨てを朝一でやっている自分は「カタコト」の魔力に絡めとられているのかもしれない。(2004.3.20)




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