退職の日

僕がこの前まで勤めていた会社は給料が銀行振込ではなく、今では珍しい手渡しでした。そのため退職を表明し、仕事を辞めた後、しばらく経って給料を貰いにいくということをしなくてはならなかったのです。銀行に降り込んでもらいたいという旨を伝えたのですが、家が近いということもあり、それに退職時にもらう書類も残っていたため、こういう生産性のないことに時間を使われるのはイヤだったのですが、押し切られてしまいました。

5月1日、その日はヤンキース×マリナーズがNHK総合でTV中継されていたので、衛星放送を見ることができない環境にいる僕はそれをゆっくりと見ていたかったのですが、会社の指定時間が午前中ということで、後ろ髪を引かれる思いで10時に家をでました。会社までは自転車で12〜13分くらいなのですが、何故かこのときは自転車で行く気にならず、トボトボを歩いて行くことにしました。

天気はよくて始めはちょっとしたピクニック気分だったけど、会社に近づくにつれ足取りは重くなってきて、普通に歩けば20分前後でついてしまうのだけど、このときは30分くらいかかってしまいました。会社の入口に着くと緊張はピークになって心臓のドキドキという鼓動が感じられました。こんな時に「よおぅ!」とか言いながら入っていける勇気がほしいものです。

会社に入って社長がいつもいる2階の事務所に入ると社長の奥さんがいつもの席で事務を取っていて社長はお客さんと話していました。
「ご無沙汰していました」と声をかけると
「じゃー、3階で話をしようか」と社長がこたえました。
3階は食堂があり、そこで待っていればいいんだろうなとは思ったのですが、1人で食堂にどかっと座っているのもちょっと気が引け、使われていないMACとかが置かれている物置の前で佇んでいました。こんなところにも小心さが現われてしまいますね。
5分くらい経ってから社長が現われ、手で「食堂へ」というふうに合図をしました。僕は社長の後から続き、社長の右隣の席に腰を下ろしました。社長は持ってきた箱をテーブルの上の乗せ、その中から4月分の給与と退職証明書を僕の方に差し出し、僕も返却がまだだった健康保険証を社長に渡しました。あっという間に儀式は終わり、あまりに簡単な結末にちょっと気が抜けかかったのですが、この後、社長の怒りのマグマが徐々に地表に現われ始めたのです。

「まあ、辞める辞めないは君の勝手だけど、いきなりに言われても困るんだよな」 と明らかに怒りを何とか押さえているといった口調で社長が言いました。だけど退職を表明するときはだいたいが‘いきなり’になってしまうのではないでしょうか?会社を辞めたいという気持ちをそれとなく態度でわからせるようにしておけばよかったのか?…その態度って?…と頭の中ではいろいろな考えがぐるぐる回り、うつむいたまま考え込んでいると、社長はさらにイライラしてきたようで
「教わるより、教える方がはるかに大変なんだよ。わかっているのか?」
と火山が小噴火するくらいの感じになってきました。ここで変なことをいうと火に油です。それに確かにそれはそうだと思ったので
「それはわかっています」と神妙に応えました。
「この10年でうちも30人以上が出入りしているけど、君みたいのは始めてだな」と社長が言ったので、‘ということは1年平均3人くらいの人が辞めているいうことになり、僕の前に入った一番新しい社員が勤続8年ということだったので、この8年間に関しては1人も人が定着していない’という驚愕の事実がわかったのです。しかし、僕みたいな辞め方は始めてだというのがひっかかり、その説明を求めると以下のようなことでした。

‘1日とか、3日とか来て来なくなったのはいっぱいいるけど、君のように2ヶ月まともに出勤して、さらに試用期間が終わり、正社員になることに合意したのに、その後1ヶ月も経たないうちに辞めるなんてふざけている。どうせ辞めるのなら試用期間が終わったときに、やる気がないということをいうべきだ’
まあ、わからないことはないのですが、僕としては試用期間が終わる頃は続ける気があったのですが、その後、続ける気持ちがなくなってしまったのだからどうしようもないという感じでした。

僕が仕事を続ける気持ちがなくなってしまった理由はいくつかあるのですが、一番の理由はものすごい閉塞感でした。まずその日の仕事の最終的な予定がわかるのが19時くらいなので、日中にどんなに暇であっても2時間程度の残業になってしまいます。だから平日の夜に予定はいっさい入れられないのです。社員はみんな平日にはいっさい予定をいれていないようで、「今日、友人と飲みに行くから定時で帰る」なんて言い出す人はひとりもいませんでした。19時の時点で今日中という仕事がいっぱい入ると12時をかるく超えてしまいます。特に連休の前日はその傾向が強く、徹夜に近い状態になります。ただ、社長の甥が専務をやっているのですが、この人が休日出勤が嫌いなようで金曜日はどんなに遅くなってもすべての仕事を片付けて土曜日は休みということにしていました。酷い時は土曜日の朝の7時までやっていたこともありました。

そして私用の有給休暇はまず許可されないということでした。僕がいた3ヶ月の間、休暇を取って休んだ人は1人もいませんでした。体調が悪くても簡単には休めない雰囲気がありました。社長も誇らしげに有給休暇を取る社員なんていないと言っていたことがあります。
こういった雰囲気が僕には全然合いませんでした。忙しいものいいけど、たまには平日の夜に友人とお酒を飲んだりしたいし、平日と休日を組み合わせてちょっと遠くに旅行にも行ってみたいし…。
こういったことを社長に伝えたかったのですが、なかなか難しく、社長もあまり人の話を聞かない方なので、最終的には僕が極端な残業嫌いということになってしまいました。

そして終には
「そんなに残業がイヤだったら‘月に俺は30時間以上はできないんだ’とか言えばいいじゃないか。相談してくれればよかったんだよ」
と言いましたけど、‘私用の有給は許可にならないだろう’なんて言っている人間がそんな相談に乗るとはとても思えません。入社する時に私用の有給が許可にできない理由について社長は
「ひとりに許可すれば他の人間も次々と申請してきて困る」ということでした。もし、僕に‘残業は月30時間以上はしなくていい’などと言ってしまえば他の社員の中にも同じような要求をしてくる人が出てきて収拾がつかなくなるでしょう。少しでも自分が慈悲のある人間に見せようとする社長の方便であることは間違いありませんでした。それに残業時間の多寡だけに焦点が当たっているのは本意ではなかったので、会社のシステムの話に持って行こうとしましたが、まるで聞く耳を持たないという感じでした。

少しは抵抗をしようと思い、最後に職安の求人票に書かれている残業時間は明らかに嘘だから訂正しておいた方がいいと指摘しました。求人票には1ヶ月の平均残業時間30時間と書かれていたのですが、実際は80時間前後でした。そうすると社長は
「嘘だっていうのか?面接のとき説明しているだろう」
と顔を真っ赤にして怒りました。もう何も言う気にはなりませんでした。ただ、自分の選択は正しかったのだなということを実感したのです。
社会でも会社でもいろいろな考えを持った人間が集って、始めてまともになると思います。1つの価値観、1つの思想を押しつける集団はいつか崩壊するのではないでしょうか?(2003.5.4)


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