Black Box

 昨年の暮れ、ジャーナリストの伊藤詩織さんはTBSの元記者山口敬之氏から性的暴行を受けたとして東京地方裁判所に損害賠償を求めた民事裁判で勝訴した。伊藤さんは2015年4月に山口氏を準強姦容疑(本人の意識のない状態で性的暴行を行うこと)で警視庁に告訴したが、検察は嫌疑不十分で不起訴、また、検察審査会も不起訴相当の判断を下していた。山口氏はこの判決を不服とし、すぐに控訴した。

 昨年の暮れ、正月に読みたいと思っていた本を探しに図書館へ行った。本棚を物色していると伊藤詩織さんのBlack Bokという本が目に止まった。上記のニュースを聞いたばかりだったので、好奇心から手に取り、借りて読むことにした。2人が知り合ったのは2013年9月、ニューヨークのピアノバーだった。

 当時、伊藤さんはニューヨークの大学で写真とジャーナリズムを学んでいた。生活は厳しく、いろいろなバイトをしていたが、そのひとつがピアノバーだった。そして、このバーに客としてやってきた山口氏と出会うことになる。当時、TBSのワシントン支局長だった山口氏と大学を卒業したらニュースの現場で働きたいと考えていた伊藤さんの話は盛り上がり、後日、TBSのニューヨーク支局を見学させてもらうことになる。

 ニューヨークの大学卒業を目前にした伊藤さんはインターンシップの受け入れ先を探し始めた。インターンシップとは就労体験のことで、その中に山口氏のTBSも入っていた。山口氏は、TBSは人が足りているため、人を募集していた日本テレビを紹介し、伊藤さんはそこで働き始めるが、経済的な困窮のため帰国、ロイター通信の日本支社とインターンシップ契約を結んだ。

 しかし、わずかな報酬しか出ず、時間も不規則なインターンシップで働くことを両親に反対されてしまう。彼女は両親を安心させ、自分の望んでいた環境で働くにはどうしたらいいだろうと考え、アメリカでの現地採用を目指すことにする。そして、山口氏に現在就活中であり、空いているポジションがあれば教えてほしいとメールを送ると、やる気があるならプロデューサーとしての採用も検討すると返信がある。

 アメリカで働くためには就労ビザが必要で、その打ち合わせをするため、山口氏の帰国のタイミングを待って2人は東京で会うことにする。一軒目の店で少し飲み食いした後、二軒目のすし屋に移動する。このとき時刻は9時40分くらいだったという。すし屋にもかかわらず出てきたものはおつまみのようなものばかりと日本酒で、日本酒を二合飲んだ後、伊藤さんはトイレに立った。三合目を飲んでいるときに体の調子がおかしくなり、再びトイレにいったが、そこからの記憶はない。そして、痛みによって目を覚ますとホテルの一室で山口氏にレイプされていた。

 伊藤さんは一軒目の店でビール2杯とワイン1、2杯、二軒の店で日本酒2合を飲んでいる。酒に弱い人なら酩酊状態になるかもしれないが、彼女はお酒にはかなり強い方で全く問題のない量だという。そのため、二合目を飲み終えトイレに立った隙に、デートレイプドラッグを飲み物に混入されたのではないかという疑いを持った。デートレイプドラッグとは特別な薬ではなく、睡眠導入剤だったり、精神安定剤だったりする。レイプを目的として、それらを飲み物に仕込み、意識を失わせるのである。

 意識を取り戻した伊藤さんは「痛い」「痛い」と何度も繰り返したが、山口氏は容易に離れようとはしなかった。「トイレに行きたい」というと、ようやく体を離したという。トイレに逃げ込んだ伊藤さんは鏡に映ったあざだらけの自分の体を目にする。そして、トイレから出た後、再び山口氏は乱暴しようと伊藤さんを押さえつけ、そのとき殺されるという恐怖を覚えた。強い拒絶の姿勢を示すとようやく山口氏は、体を離す。伊藤さんは衣服を探すが、ブラウスは何故かぐっしょりと濡れており、パンツは一向にみつからない。山口氏に問うと「パンツくらいお土産にさせてよ」といったという。

 伊藤さんの記憶のない間の行動は、第三者の目撃者の証言によって埋めるしかない。すし屋の店員や客、タクシーの運転手、そしてホテルの従業員などである。ただ、このすし屋は山口氏の懇意にしているお店であり、その証言は割り引かなくてはならない気がする。すし屋の店員の話によると2人が飲んだ日本酒の量はだいたい一升だったという。伊藤さんは3合目を飲んでいるところで記憶がなくなっているから、この証言を訊いたときに驚いたそうだが、明細書は残っておらず正確には7〜8合だったかもしれないらしい。また伊藤さんは他の客の席に座ったり、話もしていたそうだ。山口氏に促され、店を出たという。

 タクシーの中では当初2人は仕事に関する話をしていたが、伊藤さんの酔いは徐々に深くなり、「駅に行ってください」と繰り返していたという。しかし、山口氏は宿泊先のホテルを指定し、伊藤さんが酩酊状態になったこともあり、そちらに向かったようだ。タクシーを降りるさいに、伊藤さんは「掃除をするの。私が汚しちゃったからキレイにするの」といっていたそうだ。タクシーの運転手は「車内に留まって掃除をしようとしていたのか、または、それを口実にして逃げようとしているのかと思った」と証言している。一人で歩ける状態ではなく、山口氏に抱えられホテルに入っていった。2人の降りた後、後部座席を確認すると、伊藤さんの吐しゃ物があったという。

 この姿はホテルのボーイも確認している。タクシーを降りた後も「キレイにしなくちゃ」と繰り返していたが、山口氏に引っ張られ「うわーん」と泣き声のような声を上げていたという。「客観的に見て女性が不本意に連れ込まれていると確信した」とボーイは証言している。この段階ではどうみても2人の間に‘合意’があったとは思えず、防犯カメラの映像によって警察も逮捕に前向きになる。ホテルの部屋に入ってからは、伊藤さんの記憶のないため、まさにBlack Boxである。

 山口氏によると、ホテルに連れ込んだのは正体不明になった伊藤さんを路上に放置するわけにもいかず、やむを得なかったという。ホテルの部屋に入った後、伊藤さんは部屋の二か所にゲロを吐き、また、トイレでも吐いた。ゲロは山口氏の私物にもかかったため、それを拭き、またゲロ塗れになった伊藤さんのブラウスとスラックスを脱がして洗い、部屋のゲロの始末もした。伊藤さんはイビキをかいて寝ていた。彼は伊藤さんの発する嘔吐臭に耐え切れなかったため、別のベッドで寝た。明け方、伊藤さんはトイレに立ち、戻ってくると山口氏のベッドに入った。このとき、「飲みすぎちゃった」などと普通に会話した。半裸の若い女性を隣にして、そういうことになってしまったという。

 山口氏の言い分は、一応筋は通っている。伊藤さんがホテルを出て、タクシーに乗ったのが5時50分くらいで、そこから逆算すると乱暴されたのは5時以降と思える。またブラウスが濡れていた理由も山口氏が洗ったとするならば辻褄は合う。ただ、ホテルの客室清掃員の話ではベッドの一つは使われた形跡はなく、部屋に嘔吐物の跡もなかったそうだ。伊藤さんはレイプされたショックから、警察に被害届を出すのは5日後となってしまい、薬物の使用の有無はわからない。

 この出来事の真実はどうなのだろうか?ホテルの部屋に入るまでの間に二人に‘合意’があったとは思われない。また、部屋に入った後も、酩酊状態だった伊藤さんがすぐに回復することは考えにくく、もし、何らかの‘合意’があったとすればかなりの時間が経過した後と考えられるが、‘合意’が取り交わされるには、いろいろな駆け引きがあったことが想像され、少し前まで酩酊状態だった人がにわかにそういった冷静な話ができたとは思い難い。

 泥酔した若い女性を自分の泊っているホテルの部屋に連れ込むというのは、かなり常識を逸脱した行為といわなければならない。女性の自宅まで送り届けるのが通常である。女性の自宅のわからない場合は、泊っているホテルに別にもう一部屋取るという手もあるだろうし、満室だった場合でも別のホテルを用意するという方法もある。また、自分のホテルの部屋に女性を寝かせ、自分は何処かほかの宿泊できる施設で一晩を明かすということも考えられる。体調があまりにも悪いようだったら、病院に連れていかなくてはならないのではないだろうか。

 もちろん、いろいろな方策を取ろうとしたが、他の宿泊施設等が見つからず、やむをえず自分の泊っている部屋で一夜を過ごさせるということはあり得る。しかし、山口氏がそういった‘努力’をした形跡はなく、迷いなくタクシーの運転手に自分の泊っているホテルに行くように指示をしている。このことから考えて、計画的だった可能性が高いように思われる。

 まったく別のシナリオも考えられなくはない。しかし、それはもうGone Girlの世界であり、現実の世界では極めて考えずらいことである。

 Black Boxの中ではレイプされた後の伊藤さんの心理状態も克明に描かれている。自分さえ忘れてしまえば元通りになるのではないかという思いがあり、悩み混乱する。そのとき山口氏に送ったビジネスライクなメールも本書に載っている。山口氏やその応援団はこのメールを根拠に、レイプはなかったと主張しており、中には枕営業失敗という酷い中傷まであった。彼らはレイプされた女性の心情に寄り添おうともしない。

 やがて伊藤さんは、真実に向き合って戦っていうこうと決心する。そうしなければ、自分を失ってしまうように思えてきたのだ。しかし、その後の警察や検察の対応はレイプ被害者にとってはあまりにも冷たいものだった。

 そして、山口氏の‘応援団’からも、酷いバッシングに合う。被害に会った日にやや胸元の開いた服を着ていたことや酩酊状態になったことから、「女として落ち度がある」という国会議員の女性まで出てきた。昭和の頃のかび臭い話を聞かされる思いで、呆れてしまう。山口氏の‘応援団’は、だいたいこの程度の人間の集まりである。

 山口氏は「性被害を受けた人間なら記者会見の場で笑ったりしない」と記者会見の場で発言した。これが著名で経験豊富なジャーナリストの発言なのだろうか?性被害を受けた人間は下を向いて生きていかなければいけないのだろうか?笑ってはいけないのだろうか?

 性犯罪は一番身近な犯罪だと思う。誰でも被害者になる可能性もあるし、また、加害者になる可能性もある。それにもかかわらず、被害者を取り巻く状況はあまりにもお寒い状況である。レイプされた女性に気丈に振舞えというのは無理で、被害女性側に立って相談に応じてくれる窓口の存在が必要である。現在でも、相談窓口はあるが、被害者を全面的にサポートするといった感じではないようだ。

 本書には、事件の顛末から被害者の衝撃や混乱、そして捜査機関や日本社会の抱える問題点までが描かれている。是非とも手に取って読んでもらいたい一冊だと感じた。(2020.2.15)


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