会社でよく聞く言葉に「帰れない」というものがある。帰りたいのだけど、仕事が忙しくて帰れないということだ。「休めない」も同じで、仕事が忙しくて休暇をとることができないというものだ。僕はこの言葉を聞くたびに違和感を覚えている。何故、仕事が忙しいと帰れないのだろうと。 仕事が忙しくても、帰りたければ帰ればいいじゃないかと思うのである。「仕事が忙しい」ということが「帰れない」または「休めない」という結論に帰結することが、いまひとつわからない。仕事が忙しいということは、どこの国でもあることだと思うが、だから「帰れない」ということに結び付くのは日本だけのような気がする。何故、仕事が忙しいと「帰れない」のだろうか? それは、仕事を最優先にしているからだ。何よりもまず仕事なのである。それは、仕事が好きというより、周りがそうなっているからであり、周りに合わせることが日本の社会の空気になっている。もし忙しくても定時で帰るなどということをすれば、影口をたたかれ、評判は悪くなっていく。そうした環境に身を置くうちに、いつしか仕事最優先が当たり前になり、「帰れない」「休めない」となっていくのである。 以前に勤めていた会社で或る社員が戒告の処分を受けた。その理由は端的にいってしまうとずる休みなのだが、彼は「親戚の人が亡くなった」という嘘をついたのだ。普通に私用ということで有給を申請すればいいじゃないかと僕は思ったのだが、彼は周囲の空気を感じやすい体質らしく、誰もが「それなら休んでも仕方ないな」という理由をでっちあげてしまったのである。休暇明け、上司や同僚から御悔みの言葉をかけられたり、状況を訊かれたりして、しどろもどろになり嘘が発覚してしまったのである。 しかし、そういった理由でもなければ、休暇を取ることが出来ないような空気が会社内に蔓延していることが問題なのである。僕も以前、「私用の休暇は認めない」と社長が広言している会社に勤めていたことがある。ここでは、休暇だけでなく、残業するのが当たり前になっていた。というのは、業務的な流れによって、19時半くらいにその日中という仕事が入ってくることがよくあった。もちろん、何もない日もあるが、それに備えて、それまでどんなに暇でも19時半までは会社に残っていることが社員の慣習となっていた。したがって、平日に予定を入れている社員は誰もいなかった。アフター5に友人と飲みに行くからと定時で帰るなどということのできる雰囲気ではなかった。 この会社に勤め続ける限り、平日に恋人とデートすることもできなければ、友人と遊びにいくこともできず、人生が隘路に落ち込んで行くような絶望感を僕は覚えた。そして、他の社員は何も感じないのだろうか、この状況をどう思っているのだろうかと疑問を持った。しかし、他の社員は、この「帰れない」「休めない」状況を当たり前のものとして受け入れ、改善をしようとする空気は無かった。改善する気になれば、いくらでも方策はあったのにである。 周囲に合わせて仕事を最優先にして、「帰れない」「休めない」と愚痴ではない愚痴をこぼして、自分を合理化していけば会社内で軋轢を生むことは無くなるが、同時に自分自身も失ってしまう気がする。「帰れない」「休めない」といっている人は、意外と嬉しそうだったりする。会社内の歯車として機能していることを誇らしく感じているのかもしれない。 もちろん、仕事を第一と考える人がいてもいいと思う。それは個人の自由だ。しかし、それが同調圧力となって、会社を覆い尽くしている現状は息苦しい。有給休暇の異常に低い消化率、そして過労死ということにまで繋がってくると思う。どうしたら、個人を尊重し、多様性を認める社会になっていくのだろう? 仕事が忙しければ「帰れない」「休めない」と思っている人が多数派の現状を変えるのはかなり難しい。しかし、人生を俯瞰したときに、「帰れない」「休めない」人生って何なのだろうかと思う。もっと生活を楽しむということを考えなくてはいけない。周囲の見えない圧力に負けず、自分の人生を取り戻そうとする人が増えてくれればいいと思う。(2018.7.16) |