CIAの工作員が組織からあらぬ疑いをかけられて追われるというアメリカのスパイ映画を観たことがあった。その中でCIA幹部の「ドヤ街に潜伏されたら、探しようがなくなるぞ」というセリフがあった。数カ国のパスポートを所有し、いくつもの顔を使い分ける工作員が、多くの事情のある人が蠢いているドヤ街に入り込んだら、いくらでも身を隠せるというわけである。その映画を観て以来、都会の中に存在する迷宮のような場所としてのドヤ街というものに興味が生まれた。 ドヤ街のドヤは宿をひっくり返したものだという。簡易宿泊施設のことだが、とても宿とは呼べないということで、そういう呼び名になったらしい。かつては、というか現在もそうだろうが、日雇い労働者たちの暮らしている街である。しかし、社会状況の変化により、日雇いの仕事は激減しており、多くの人たちが生活保護によって生計を立てている。ドヤ街の実態を知りたくなり、図書館に行くと、「寿町 風の痕跡」というノンフィクションがあったので、借りてきて読んだ。これは、弟の足跡を辿る兄の話である。 兄が寿町の寄せ場に屯する日雇い労働者に二枚の写真を見せ、この男性を見たことはないかと訊きまわる場面からこの本は始まる。二枚とも弟の写真で、一枚は自衛隊時代のもの、もう一枚はサラリーマン時代のものである。見たことはないとみんなが口ぐちにいう中で、一人だけその男とは昨日いっしょに食事をして奢ってもらったという男がいる。その男に対して兄は、「最初に話しておくべきだったかもしれないが…」と断わり、写真の男は数カ月前に死んだと話すのである。 彼の弟は秋田の実家を出て以来、実に七年間、消息を立っていた。それが、ある日、突然、実家に帰ってくる。体を壊してしまったらしく、体調はそうとう悪そうだった。母は、今まで何処で暮らし、何をしていたのか訊くが、弟は何も答えない。そして、翌日から高熱を出して、寝込んでしまう。医者に行こうと母は勧めるが、休養すれば良くなると弟は拒否する。 しかし、翌日になっても熱は下がらず、母はかかりつけの医師に診察を依頼する。医師は家まで診察に来てくれるが、詳しいことは検査をしてみないとわからないといい、母は明日にでも…とお願いするが、翌日は勤労感謝の日のため、病院は休みなのだ。そして、勤労感謝の日の翌日、実家に帰って来て三日目に弟は亡くなってしまう。 母は、その三日間に、断片的に弟から聞いた言葉を兄に話す。それによって、弟は寿町で暮らしていたらしいことがわかるのである。母は、兄に弟がどんな暮らしをしていたのか知りたいと話し、物書きを生業としている兄が弟の足跡を辿るための調査を始めるのである。きっかけは母の要望であったが、兄は寿町に対する好奇心により、現地に執拗に通うようになる。 しかし、寿町で暮らす労働者たちは、基本的に他人に無関心であり、お互いに相手の素性どころか名前さえも訊くことはあまりなく、弟が何処で暮らし、何をしていたのか、その足跡はなかなか掴めない。そんな中、ようやく、職業安定所で弟の働いていた会社が数社わかる。 兄はそれらの会社を訪ねるが、社長が夜逃げをしていたりするところもあり、苦戦するが、ようやくその中の一つから、弟と一緒に働いていた労働者の名前を知ることが出来る。しかし、寿町に暮らす労働者はほとんど偽名を使っており、その人物を探すのは不可能に思われたが、運よく、職安の職員がその人物と懇意であり、数週間後、連絡を取ることが出来る。 しかし、実際に会っても、その労働者、木下さんは弟のことは、背の高かったこと、色の白かったことくらいしか覚えておらず、弟が何故、寿町に住み、日雇い労働をするようになったかは、わからない。兄は、木下さんを知ることによって、空白になっている弟の足跡を埋めようとする。 寿町で暮らしている労働者は、理由はそれぞれだが、管理社会に馴染むことの出来なかった人たちである。ある労働者は、「いまさら、ここ(寿町)を出て、家族のもとに帰ってもやっていけないだろうね。会社に入れば、ルールに縛られ、上司にガミガミいわれ、同僚や後輩に気を使うし、家に帰ったら帰ったで、家族からもいろいろいわれるしね。そういったことに、耐えられないだろうな。ここなら、誰も何もいわないから、気ままで自由に暮らせる」という。 寿町で仕事を得る方法は、三つある。一つは、職安の窓口である。公園の除草とか、中央分離帯の掃除とか、市の発注する仕事が多いようだ。ただ、仕事量は少なく、ここで仕事にありつくのは、くじに当たるようなものらしい。職安の窓口で仕事を得ることのできなかった人は、手配師から声のかかることを待つことになる。仕事は主に建築現場である。もう一つは、会社の担当者から直接、呼ばれることである。これは、以前にそこで働いたとき、勤務態度や働きがよく、担当者の目に止まったりすると、直接、声をかけてくれることもある。木下さんは、年末に三、四社から、声をかけられたことがあったらしい。しかし、どの方法でも、仕事があったり、なかったりという不安定さは常に付きまとう。 木下さんは寿町から出ることを望んでいるが、面接に行っても住まいが寿町であることがわかると面接官の態度が変わることを経験しており、一度、ここにはまってしまったら出ることはまず無理だと絶望的な気持ちになっている。この本の半ば以降は、この木下さんの人生と彼を通した寿町スケッチになっていく。つづく…(2015.5.4) |