古賀氏、報道ステーション降板

 三月二十七日の夜、テレビ朝日の報道ステーションを見ていた。始めから、この番組を見ていた人は感じたかもしれないが、古館キャスターと古賀氏の間に、というより番組全体に緊張感のようなものがあった。少なくても、以前のような和気あいあいといった雰囲気ではなかったのである。冒頭からいくつかのニュースが報じられていたが、古館キャスターが古賀氏にコメントを求める場面は無く、ひょっとしたら、このまま終わってしまうのだろうかと思わせるほどだった。

 今日は、三月最後の金曜日、古賀氏の報道ステーション出演は最後なのかな?と思った。ネットで、そのようなニュースを読んだ記憶があったのである。やがて、イエメン空爆に関するニュースが伝えられ、初めて古館キャスターは古賀さんにコメントを求めた。しかし、「ちょっと、その前に…」と古賀さんは、中東情勢ではなく、自らの降板の経緯を話し始めた。

 それによると、テレビ朝日の早河会長と古館プロジェクトの佐藤会長の意向により、本日が最後となったということだった。それに対して古館キャスターは、降板ではなく、あくまで四月からのリニューアルによるもので、これからも機会があれば出演をお願いするということをいった。それに対して、古賀氏は、楽屋での古館キャスターとの遣り取りを暴露し、言い争いのような状況になったが、「それより、イエメンの話を」といわれ、その場は落ち着いた。中東情勢の解説をする古賀氏の手は、小刻みに震えていた。

 その後、政治のニュースになり、再びコメントを求められた古賀氏は、初めはニュースの解説という感じだったが、徐々にヒートアップし、安部政権批判を堂々と続け、自身の用意した「I am not ABE」というプラカードを掲げた。そして、最後にマハトマ・ガンジーの「あなたがすることのほとんどは無意味であるが、それでもしなくてはならない。 そうしたことをするのは、世界を変えるためではなく、世界によって自分が変えられないようにするためである」という言葉を紹介した。

 番組を一時ジャックするような古賀氏の行動には、賛否両論ある。しかし、僕は、よかったと思っている。不適切な言い方かもしれないが、面白かった。できれば、スポーツのコーナーなど飛ばして、この問題をもっとやってほしかった。テレビで久しぶりの人間の声を聞いたような気がしたのである。

 古賀氏の報道ステーション降板は、官邸からの圧力にテレビ朝日が屈してしまったということらしい。僕などに真相はわからないが、イスラム国による湯川さん、後藤さん人質事件のとき、古賀氏が報道ステーションに出演し、安部首相がカイロで行った演説を痛烈に批判し、「I am not ABE」のプラカードを掲げるということがあった。このときも、僕は報道ステーションを見ていた。このときの古賀氏の発言は、人命がかかっているということもあってか、かなり挑発的で、これに対して官邸が放送中に抗議電話をかけるほど激怒したという。官邸が激怒した客観的な証拠としては、菅官房長官が古賀氏を名指しこそしなかったが、記者会見で皮肉を交えて強く批判している。

 沖縄県民を無視した強引な辺野古の米軍基地建設や、安全確認が十分とれていないにもかかわらず原発再稼働を急いだり、十分な議論もないまま集団的自衛権の憲法解釈変更や自衛隊の任務拡大など、安部政権は日本をおかしな方向へ導いて行っているように思える。富裕層以外ほとんど恩恵のないアベノミクスも含めて、何故、支持率が未だに高いのか不思議である。

 もし、今回の古賀氏の降板が、官邸の圧力によるものであれば、大変な問題である。圧力をかけ自由な言論を封鎖する官邸も横暴なら、それに屈してしまうメディアも情けない。このようなことが度々起これば、日本は本当におかしくなってしまう。

 古館キャスターは降板させられたという古賀氏に対して「四月も機会があれば、出演してもらいたい」というようなこといった。この発言は二通りの解釈ができる。一つは、本当にそう思っている場合である。古賀氏降板は、古館キャスターの本意ではなく、とりあえず四月以降の出演予定はなくなってしまったが、時間をかけて上層部を説得しようと考えているということである。

 もう一つは単なる社交辞令の場合である。古賀氏降板は、「仕方ない」または「当然である」と思っているが、世間への受けをよくするため、実際は出演させる気は無いのに、「機会があれば…」「思っている…」というような曖昧な表現を使い、事態を収拾しようということである。このような方法は、何処でも日常茶飯事に行われている。この場合、相手の本心がわかっていても、肝心なことが曖昧にぼかされてしまっているため、強く反論することができなくなる。答えは、今後、古賀氏が報道ステーションに出演するかどうかでわかるだろう。

 異なる考えや意見を持つ人の表現を封じてしまう社会は最悪である。もし、違いあれば、とことん議論するべきなのだ。議論しても、決着はつかないことが多いが、最終的な結論はそれを見て、聞いている人たちの判断に委ねればいい。

 古賀氏だけでなく、長年、報道ステーションを担当していた番組ディレクターが、古賀氏の言葉を借りれば‘更迭’、古館キャスターの言葉を借りれば、‘人事異動’ということで番組から外れることになるようだ。どちらの見解が正しいかは、四月以降の番組をみれば、自ずと答えはでるだろう。

 いずれにしても、古賀氏のように良識があり、見識の広い人が、多くの人が視聴する全国ネットのテレビから干されるというのは、全く酷いことである。言論自由、表現の自由が守られているか、言論封殺は無いか、しっかりとみていかなくてはならない。(2015.3.29)


皆さんのご意見・ご感想をお待ちしています。joshua@xvb.biglobe.ne.jp

TOP INDEX BACK NEXT