360度の笑顔

 会社に、常に笑顔を絶やさない女性がいる。仮にTさんとしておこう。Tさんは、何があっても楽しそうにニコニコしているので、周囲を明るくしている。仕事で誰かがミスをしても責めることなく、笑顔で励まし、キツイ場面でも笑顔で乗り切る。そのため、周囲から大変好かれており、彼女のことを悪くいう人はいない。しかし、僕はどうも彼女が苦手なのである。

 何故、苦手なのかというと、常に笑顔で覆われているため、本当の表情を見ることが出来ないからだ。彼女の笑顔は自然なものではなく、作られたもので、以前に妻が、「いつも笑っているね」と何気なく訊いたことがあり、そのとき「ストレスを溜め込まないように、意識的に笑うようにしているの」と彼女は答えたそうである。

 以前、会社で怒られると、照れ笑いを浮かべてしまう女性がいた。怒られてもヘラヘラしていると大変評判が悪かった。しかし、彼女は、責任を感じていないわけでも、反省していないわけではなかった。むしろ、自責の念を強く感じてしまうがあまり、笑ってしまうのだった。それは、自己防衛の一種だったかもしれない。笑うことによって、酷く落ち込みそうになる気持ちを、何とか、持ち上げようとしていたのである。その証拠に、怒られている時はヘラヘラだが、影ではかなり辛そうな表情を浮かべていた。Tさんの笑顔も、彼女と同じく、自己防衛的な色彩が強いように思う。ただ、彼女が専守防衛なのに対して、Tさんは核武装しているくらいの違いがある。

 360度、すべての人に笑顔を振りまいているように見えるTさんだが、そんなことはまず無理で、笑顔の反動が何処かに現われるように思う。そんな場面に出会ってしまったことがあった。休憩室で、Tさんが誰かと携帯電話で話しているところをたまたま聞いてしまったのである。

 話相手は、家族の誰かで、夫か、自分の両親のどちらかだろう。Tさんは、かなりイラついており、強い口調で相手を怒っていた。そのときの、挑戦的な話し方は、会社の人の前では見せたことのないものだった。僕のいることに気づくと、バツの悪そうな表情を浮かべ、電話の相手と話しながら非常階段の方に行ってしまった。

 このことで、僕はTさんが実は気性の激しい女性で、他人の前では猫を被っているということをいいたいわけではない。これは、当たり前のことなのである。人は全ての人に対して、いい顔を出来るものではない。誰かにいい顔をすれば、その反動が必ず何処かで出るのが普通である。外面のいい人が、家庭の中では威張っていたり、その逆で、外では怖がられている人が、家族には優しかったりするのである。

 何があっても笑顔を絶やさないというのは、実はかなり我慢を強いられることで、そのストレスが何処かに向かうのは当然の帰結といえる。そのストレスを何処かで開放しなければ、いつか、心がおかしくなってしまうだろう。Tさんの笑顔は、僕には少し辛いのである。

 Tさんに限らず、僕たちは自分の感情を常に抑えつけている。無理して笑い、涙を堪え、怒りを飲み込みこんで、自然の感情を消している。それは、社会生活を送る上で必要なことではある。みんながみんな、自分の感情の赴くまま、それを現していたら、いろいろと支障が出てしまうだろう。しかし、もう少し、自分の自然な気持ちに正直になってもいいのではないだろうか?哀しくて泣き、うれしくて泣き、嫌なことがあったら怒り、楽しかったら笑う、それでいいのではないだろうか?(2015.3.8)


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