ジリ貧状態から脱出せよ

 ノンフィクション作家の沢木耕太郎さんの著作に「無名」という作品がある。これは、単純にいってしまうと沢木さんが父親を看取った記録である。脳出血の見つかった父が入院してから亡くなるまで約一月のことが書かれているが、その合間に息子から見た父親の半生が綴られる。その中で、現在の自分と重ね合わせて、沢木さんの父親に畏怖の念を覚えた個所がある。

 沢木さんの父親は、通信機器会社の次男として生まれた。青年時代は経済的になんの苦労もなかったが、戦災で全てを失いその後は苦労の連続だったという。手に職があるわけでもなく、際立った才能があるわけでもなく、また、戦後の混乱期に乗じて金儲けをする才覚があるわけでもなかった。そのような父親は、四十半ばまで定職に就いたことはなかったそうである。

 ‘母の働きで辛うじて食いつないでいたが、四十もなかばを過ぎた父に大した働き口はなかった。そこで、仕方なく、京浜工業地帯の小さな工場で働くことになった。(中略)給料はとてつもなく安く、母が内職をしても三人の育ち盛りの子供のいる家計に追いつかない。そして、母が体を壊したことが、さらに家計を逼迫させることになった。
 だが、父にはそれから来る焦りや苛立ちがなかった。それと同時に、たとえ家に金がなくても、妻や子供たちのために死にもの狂いでどうにかしようということがなかった。やることはやっている、それでないのだから仕方ない。開き直るというのでもなく、諦めるというのでもなく、ただその状況を受け入れていた。’

 「金がないことへの焦りや苛立ちがなかった」このことに、僕は凄みを感じてしまう。というのも、今の自分には金が少ないことへの焦りや苛立ちが強いからである。

 社員と職場の環境を巡って対立して以降、閑職に回され、給料は減っていたが、最近はそれに会社の業績不振が重なり始めた。ただでさえ、仕事の少ない時期なのに、何の影響か全体の仕事量は昨年の七割程度に落ち込んでいるようで、パートさんたちは時短を余儀なくされている。

 酷いケースは11時に出社させ、3時に帰らせるということもあり、シングルマザーのパートさんで辞めてしまった人もいるし、一人暮らしの人は生活が立ち行かなくなり、日雇い派遣のようなことを始めたりしているようである。僕の場合は自分の裁量で仕事を見つけられる閑職に回されたことが幸いし、また、社員さんが突然辞めてしまったこともあり、それほど、大きく時間は減っていないが、それでも、月2万円は落ちてしまった。

 当然、その分、生活は追い込まれ、一時はバレンタインデーのお返しもしらばっくれようかと思ったくらいである。生活の追い込まれたことによる苛立ちや不安で、妻と言い争いになったりと、精神的な部分まで蝕まれ始めている。まさにイヤな言葉ではあるが、ジリ貧状態である。ジリ貧とは、ジリジリと少しづつ貧しくなっていくことを略したもので、もともとは、第一次世界大戦後、不況のため次第に業績が悪化していく企業をさして使われた言葉らしい。どうしたら沢木さんの父親のような心境を獲得することができるのだろうかと思ったりしているのだけど、未熟者の自分にはかなり難しいようである。

 もっとも生活が追い込まれるといっても、沢木さんの時代と比較するとそんないい方をするのは心苦しい気がする。輪島功一のリターンマッチを書いた「ドランカー」という作品の中で、‘給料日が過ぎるとオカズが増えるかわりに麦飯になる。ところが、給料日間際になると麦を買う金さえなくなる。仕方なく白米だけの御飯になるのだ。もちろん、オカズは塩だけ’という個所がある。

 うちも給料日間際になると、苦しくはなるが、さすがに白米だけということはなく、せいぜいカレーの比率が多くなったり、朝食の焼魚が無くなったりする程度である。さらに妻はスマートフォンを持っているし、インターネットで毎日、いろいろな情報をみて楽しんでいる。考えてみれば、ゼイタクな生活なのである。

 しかし、そうは思うのだけど、やはり、苛立ちや不安の解消にはならない。そこで、出ていく方を抑えようといろいろと努力をすることになる。例えば、今は冬なのでそれほど汗もかかないから、風呂(シャワーだけを含む)は二日に一度にしようとか、暖房を使う時間を短くしようとか、三本点けている蛍光灯を二本にしようとか、さらに、トイレは小では流さず、ウンチをしたときだけ流そうとか。

 実際に昨年、妻がペルーに帰っているとき、このうちのいくつかを実行した。妻がペルーに帰っていた時期は夏だったので、風呂の二日に一度はできなかったが、冷房、電灯、それにトイレも実施した。電気料金はたいして安くならなかったが、劇的だったのは水道で、いつもの半額以下になった。しかし、総合的に考えてみて、節約になったのかどうかは微妙である。というのも、当然、トイレは汚れやすくなり、掃除の回数が増えたからだ。

 一人暮らしなら、こういったことも可能だが、家族がいるとまず無理だと思う。今回も、上の提案は全て妻に却下されてしまった。それに節約は大切だと思うけど、そればかり考えていると人間が小さくなっていくような気がする。

 出ていく方を抑えられないのなら、入りを増やすしかない。入りを増やすためには、身入りのいい仕事に転職するか、あるいは副業を探し、労働時間を増やして稼ぐしかない。そして、今、この二つを模索している最中である。(2014.3.18)


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