東北関東大震災から三年が経ちました。その瞬間、僕は会社の健康診断で病院にいっていて、廊下のベンチに座ってレントゲンの順番を待っていました。大きな揺れが長く続いたこと、看護師さんが「この建物は耐震性ですので、安心してください」と患者さんを落ち着かせていたことを記憶しています。 大きな揺れ(確か神奈川県東部は震度5だったと思います)でしたが、何かが倒れるとか、モノが落下してくるとか、そういった被害はなく、揺れが落ち着いてしばらくして検診は再開され、全ての検査を終えて会社に戻りました。 その道すがら、道路には多くの人たちが出ていて、心配そうに寄り添って話し合ったりしていたので、結構、大事になっているんじゃないかと思ったのでした。会社に戻ると、会社も耐震性の建物なのですが、揺れによって機械は全て使用不能になっていました。大きな余震が続き、とても仕事のできる状態ではないので、帰宅できる人は帰ることになり、僕は機械の復旧をすることになりました。 どうにか明日の朝から使える状態になったので、帰宅することにしたのですが、電車は全て止まっているということで、歩いて帰ることになりました。歩いて帰れない人は、知人の家や会社に泊った人もいました。妻の親戚の経営するペルー料理店に行くと、シゲおばさんと妻がテレビの画面に見入っていました。津波の映像が映し出されていました。 妻と帰路につくと、しばらくして周りが真っ暗いなっていることに気づきました。停電していたのです。家も停電だったら、イヤだなと思いながら歩いて行くと、自宅の手前のブロックまでは停電していたのですが、幸いウチは電気が点きました。そして、妻の買っていたお惣菜を食べ、東北の惨状をテレビで見続けました…。 もう、あれから三年です。懸命に復旧した機械ですが、震災以後、使うことはありませんでした。会社がその事業からの撤退を決めたからです。僕の仕事もなくなり、ハローワークに通ったりしました。その後、他に部署に回され、どうにか今日まで続いていますが、昨年の暮れ社員さんとのトラブルがあり、それが未だに尾を引いている状態で、先行き、どうなるかわかりません。 東北では三年経った今でも、依然、避難者数は26万7000人、仮設住宅に暮らす人も10万人を超え、原発はとても終息に向かっているとは思えない状態が続いていますし、復興への道はまだまだ遠いようです。さらに、こうした形而下の問題の他に、被災者の心の傷も癒えていないように思います。そんなことを思ったのは、大川小学校で起きた悲劇の検証番組をテレビでみたからです。 大川小学校では、全校生徒108人のうち死者・行方不明者74名、教員も死者・行方不明者10名となりました。午後2時46分の地震発生後、3時頃には生徒は校庭に集合し、点呼を取ったといいます。このとき、津波に備えて、裏山に登ることを進言した教師もいたそうですが、傾斜が急で倒木や雪があり、危険ではないかという反対意見が出され、指揮を取っていた教頭先生は決断することができず、子供たちは校庭で待たされることになりました。この裏山というのは、シイタケの栽培なども行われており、決して‘急’ということはなく、子供でも登れるくらいの傾斜でした。 さらにふたりの児童が教師に「ここにいたら津波がきて、みんな死んでしまうから裏山に逃げよう」と訴えている姿が目撃されています。かなり強硬に、目に涙を浮かべながら訴えていたといいます。それに対する教師の答えは「津波なんか来ない」というものでした。 車で小学6年生の女児を向かいにいった母親は途中聴いていた車のラジオで6メートルの津波の来ることを担任に伝え、裏山に逃げるようにいったそうですが、「落ち着いてください」というだけで、行動しなかったそうです。結局、「周りの子供に動揺を与えるので、先に帰ってください」といわれ、子供を車に乗せ学校を去ったといいます。 3時25分頃、ようやく教頭先生は、避難することを決断します。しかし、それは裏山ではなく、北上川にかかる堤防道路の近くのある三角地帯といわれている場所で、標高は校庭よりわずか5メートル高いところでした。そして、移動の途中の3時37分津波が一気に子供たちを飲み込んでしまったのです。地震発生から津波が来るまでの50分、なぜ、裏山に避難することができなかったのでしょうか? 教師に、目に涙をためて裏山に逃げることを訴えていた児童の父親は「教師がいなければ、普通に裏山に登って助かっていた」と無念さを語っていました。実際にもっと海沿いに位置し、裏山の傾斜の急な相川小学校、雄勝小学校では児童全員が山に登って無事だったのです。リスク管理の専門家は、「裏山に登ってケガをするリスク」と「津波にのまれて命を失うリスク」を同じ次元で天秤にかけてしまったといいます。 何故、大川小の教師たちは、裏山に逃げるという選択肢をとらなかったのでしょうか?それは「津波が来るから裏山に逃げよう」と訴えた児童に対する教師の答えが物語っているように思います。「津波なんか来ない」そう思い込んでいた、津波の来ることなどまるで想定していなかったのです。 大川小学校は海から4Km離れており、津波のハザードマップにも浸水することは想定されていませんでした。大地震の後、地区の人たちは家の前で立ち話などをしていたといいます。大川小学校は、津波が来た時の避難場所にさえなっていたのです。安全地帯にいるという意識が、決定的に危機意識を欠く結果となってしまったように思います。校庭で焚き火をして暖をとろうと提案した教師もいたそうです。 とはいっても、これまでにないレベルの地震が発生したことは、わかっていたはずで、さらに津波に関する情報も得ていました。それらの情報を自分たちの頭で考え、行動することが出来ていたら…と考えると残念でなりません。3月10日、死亡・行方不明になった児童23人の19家族は、石巻市と宮城県に対して、児童1人当たり1億円、計23億円の損害賠償を求めて仙台地方裁判所に提訴しました。(2014.3.14) |