怖いアルバイト

 小泉孝太郎さん主演のテレビドラマ‘名もなき毒’の中に、江口のりこさん演じる怖いアルバイトの女性が登場する。彼女は仕事で注意を受けると逆上し、手に負えない状態になるので、早々にクビになるのだが、そのことを恨み、元同僚を恐怖のどん底に落とし込んでいく…。この女性アルバイトを見て、僕は以前に使っていたアルバイトのA君ことを思い出した。

 A君は僕と同じ年齢の男性だった。彼は以前、高校で教師をしていたが、一身上の理由で退職し、次の職場としてある公益法人に入った。しかし、接待漬けの日々と、組織の不透明さに嫌気がさして辞めてしまい、短期アルバイトとして僕の勤めていた会社で働き始めたのである。

 最初はいい人が来てくれたと僕は思った。礼儀正しく、受け答えもハキハキしていて、とても真面目な感じがした。教師をしていたということもあってか、コミュニケーション能力も高いように思われ、彼に短期アルバイトのまとめ役のような立場になってもらおうと思っていたくらいだった。

 仕事をさせてみると、あまり出来ず、意外な感じがしたが、彼のように高学歴の場合、失敗を恐れたり、より完璧なものにしようと慎重になり過ぎて、仕事のはかどらないことはありがちなので、はっぱをかけるようなことはせず、しばらくは静観することにした。仕事に慣れてくれば、ペースは自然に上がってくると思ったのである。

 しかし、一週間経っても、ほとんど進歩はみられなかった。そして、仕事の説明をしているときの態度から、かなり頭の固いことがわかってきた。仕事をバリバリとこなすタイプではなさそうだが、人間的には申し分なさそうだったので、最初に抱いた好感は変わらなかった。

 入社して二週間くらい経ち、他のアルバイトの人たちとも、打ち解けてきた頃、始めの裂け目ができた。その日、僕は彼と同期入社した二十歳の女性アルバイトにパソコンでリストを作成する仕事を教えていた。キーボードを打たせてみると、彼女は右手の人差指しか使わなかった。

 彼女は今までパソコンを使ったことがないという。右手の人差指だけしか使わないやり方に慣れてしまったら、直すのが大変のように思え、多少時間がかかってもいいから、先々のことを考えて両手でタイピングするようにいった。

 それを隣で聞いていたA君が「初めてなんだから、そんな難しいこと無理ですよ。彼女のやりたいようにやらせてあげればいいんじゃないですか?」と口をはさんで来た。

 「いや、初めてだから、まず、しっかりと基本を教えなくてはいけないんだよ。他人のことはいいから、自分の仕事をしてください」と僕は彼にいい、引き続き彼女に指の置く位置など教え、両手で打たせた。彼は横目でそれを見ていて「厳しいね」と彼女に同情するような口調で呟いた。このとき初めて彼に対して、僕は違和感を覚えた。そして、それは、日々強くなっていったのである。

 その日以降、A君は何かにつけ、批判的な態度を示すようになった。言葉だけは相変わらず礼儀正しかったが、そのなかに含まれる毒が僕を蝕んでいくようだった。仕事を教えても、‘それはそうじゃなくて、こうした方がいいのではないですか?’などと浅はかな知識をひけらかし、優越感を覚えているように思えた。しかし、それは表面上のことだったのである。

 ある日、仕事中に、席を外して戻ってくると、A君が隣に座っていた二十歳の女性アルバイトとしゃべっていた。そして、僕の姿を見ると、すぐに話を止め、前を向いて作業を始めた。そのときは、気にならなかったが、そういうことが四、五回続くと、さすがに気になってくる。

 僕は仕事中の私語は、程度さえ守ってくれれば、別にかまわないと思っていた。むしろ、ある程度の会話のあった方が、部署としても活き活きとした雰囲気になって好ましいと考えていた。みんなが無言で黙々と作業しているような環境は、息の詰まるようでイヤだった。しかし、話してばかりというのでは、やはり正社員として見過ごすことはできない。

 古参のアルバイトが一人で残業しているときを見計らい、A君のことを訊いた。そのアルバイトはA君に、憤慨していた。僕が席を外すと、すぐに隣の女性に話しかけ、ずっと話し続けているという。そして、この前は‘仕事が終わったら、食事に行こう’としつこく誘っていたようだったといった。

 他のアルバイトをデートに誘うのは自由だし、口を出す気はなかったが、僕が席を外している間、しゃべってばかりいるというのは、看過できないことだった。僕はA君に「おしゃべりを少し控えるように」と注意した。するとA君はいきなりキレた。「Hさんだってよくアルバイトと仕事と関係ない話をしているじゃないですか。それだったら、僕もHさんが、話していたら注意しますよ!」と怒りを抑え切れないという口調でいった。

 いきなりの逆ギレに、僕は面喰った。全く想定外のことだったのである。しかし、冷静になって考えると、隠れていたA君の性格のようなものが少し見えてきたように思えた。まず、中学生レベルの理屈をいうということである。このことは、彼の幼児性を現しているように思えた。そして、粘着質ということである。彼は常に僕の行動を監視して、あら探しをして批判を蓄えていたのである。最後に、激しい攻撃性である。注意をした上役に対して、前段も無く、いきなりキレるという人はまずいないのではないだろうか。

 「私語をしてはいけないということではなく、程度の問題です」と僕は冷静を装っていった。彼の怒りにつられて、声を荒げたら、とりかえしのつかない自体になりそうな予感がしたのである。「その程度とは、どのくらいの程度なんです?!」と彼はまた子供のようなことをいうので、「自分で考えてください」といい、僕は話を切り上げた。

 このことは、他のアルバイトにも影響を与えた。目に見えてA君を避けるようになっていったのである。それまでは、普通に話していた隣の席の女性アルバイトも必要最小限の会話しかしなくなった。恐らく、いきなりキレた彼の態度をみて、怖くなったのだろう。彼は部署内で孤立するようになった。

 その状態に彼は苛立っているようで、特に僕に対しての怒りは強かったように思う。時折り彼の刺すような視線を感じることがあった。また、ときには空々しい笑い声を上げたりと、部署の雰囲気は、重く、緊張感に満ちたものになってしまった。仕事にも影響するようになり、僕は上司と相談の上、彼を他の部署に移動させた。

 ‘警察官と教師は潰しがきかない’と聞いたことがあったが、目の当たりにした気がした。両者とも人の風下に立つことの少ない職業である。特に教師は教室内ではただ一人の権力者で、子供たちに物事を教える立場なのだから、それが逆になってしまうと居心地の悪さを他人以上に感じてしまうのかもしれない。同じ年齢の僕に、毎日、指導されることに対しての鬱憤が、溜まっていたことは容易に想像できる。ただ、課長直属の元教師のアルバイトの人は、腰が低く、物腰も柔らかい気さくな人だったので、A君個人の資質によるところが大きかったのかもしれない。

 そして、もうひとつ給料のことも関係していたように思う。教師にしても、公益法人の職員にしても、高給だったはずで、そういう前歴を持つ人だったら時給900円のアルバイトがバカらしく思えたとして仕方ない。彼にしてみれば、安い給料で使われ、ちょっと話したら注意され、仕事も単純でバカらしく、やってられるかという感じだったのだろう。仕事があまりできなかったのは、彼の頭の固さということもあるが、やる気が起きなかったようにも思えた。

 A君の移動先は、社員一人、アルバイト一人の小さな部署だった。その一人のアルバイトは古くからいる寡黙な男性で、あまり話相手にはならなかったようである。社員の人は僕よりも若く、陽気な男だったから、A君を‘センセイ、センセイ’と呼んで持ち上げたので、それなりに良好な関係を保っていたようだった。何度か、その社員に話を訊いたが、トラブルもなくやっているということだった。しかし、それは長くは続かなかった。理由はわからないが、契約期間半ばでA君は会社を去っていった。(2013.8.18)


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