社畜への道

 パートのEくんが、正社員とパートの中間的な身分の準社員に‘昇格’した。「今までとは、心構えが変わりました」とEくんは喜々として語ってくれた。正社員に少し近づけたことがうれしかったらしいが、僕は彼の心情が理解できない。会社への過度な忠誠心を求められ、長時間労働を強要される正社員などというものに、できるならならない方がいいと僕は思っている。決して喜々としてなるものではない。世間体やわずかな安定を得るため、止むを得ずなるものである。

 現在勤務している会社では、準社員の月の労働時間は178時間以内と決められており、それを超えた分は超過勤務となり、残業代が支払われるはずなのだけど、実際には部署ごとに超過時間の上限が定められていて、それを超えた分については残業代が支払われず、いわゆるサービス残業になってしまう仕組みになっている。

 Eくんの先月の労働時間は250時間を超えたそうである。しかし、超過分のほとんどがサービス残業となってしまったそうで、「パートのままだったら支給で25万円を超えていたのに」と笑っていた。この会社ではパートから社員になったばかりの人はパートだったときの方が、給料が多いという‘逆転現象’の起こることがよくあるようだ。

 無給で働かされ、長時間労働を強いられ、それでもそれに対する抗議や不満を口にすることなく、当初のモチベーションを維持しているEくんに僕は畏怖の念を覚えずにはいられなかった。Eくんだけではない、他の社員からも声高な不満の声は聞こえてこない。まるで、おとなしい羊の群れである。これは一体どういうことなのであろうか?

 以前、退職した社員が会社に残業未払い分を請求したことがあった。彼は用意周到に毎月、タイムカードのコピーをとっており、会社は数年間に渡る残業の未払い分を支払うことになった。これは、当然の権利である。しかし、そのとき会社内の反応は、訴えを起こした彼に冷淡なものだった。僕といっしょに仕事をしていた社員のNさんなどは「あれだけ世話になって、普通、訴えるか!?」と憤慨していた。僕が「普通は訴えますよ」というと、イヤ顔をした。

 Nさんの考え方は、江戸時代の頃とほとんど変わっていないように思われる。社員は会社に隷属するべきで、波風を立てるなんてもってのほかというわけだ。Nさんに限らず、ほとんど全ての社員が、社畜という言葉があるように、牙も爪も抜かれて、正に飼い慣らされている。不平や不満があっても、それは同僚との飲み会などで愚痴という形で表現されるだけで、決して会社に問題を提起して待遇を改善していこうという行動にはならない。では、人は何故、社畜と化してしまうのだろうか?

 僕が最初に入社した会社は大手電機メーカーの協力会社だった。大手電機メーカーに出向になった僕は、おかしな慣習と向き合わなくてはならなくなった。そのひとつが長時間労働である。まず、いわれたのは水曜日を除く週四日は残業を三時間以上してほしいということと、月二回程度休日出勤をしてほしいということだった。月の残業時間を七十時間前後にしないと、会社側から暇と判断され、人員の削減される可能性があるという。

 そんなものかと始めは思ったが、仕事のあまりない状況で、作業をダラダラやりながら時間を稼ぐことに疑問をもつようになった。いや、それ以上に精神的に耐えられなかったのである。他の人は…と見てみれば、やはりだらだらと時間を引き伸ばしながら、仕事をしていた。

 僕はそれを止め、できるだけ定時で上がるようにした。八時間も仕事をすれば、十分だと思ったのである。当然、上司と衝突することになったが、幸いにしてその上司は‘普通の感覚’を持ち合わせた人だったので、黙認ということになった。しかし、他の多くの従業員から、陰口をいわれた。

 陰口をいっていたのは、ほとんど全員、僕とは直接、仕事上関係のない同じ部署の人間だった。特に他の協力会社のまとめ役のような立場の人は、「あいつのようにはなるな」と部下にいっていたという。僕と一緒に仕事をしていたその協力会社の人は「Hさんは変わり者だから、あまり付き合うなと上司にいわれました」といっていた。やがて、日本経済は下向きになり、残業規制が出たりして、その‘慣習’はいつの間にか消えてしまったが、僕に対する「変わり者」というレッテルだけは辞めるまで変わらなかった。

 つまり、ある会社に入社して、その会社の体臭のようなものがあった場合、それが明らかに不合理だったり、理不尽なものであろうと従わなければ、かなり辛い状況に追い込まれるということなのである。日本の会社は未だに村社会から抜け出ていない。そして、疑問を感じつつも、自分もその体臭に染まっていく。そうすることの方が会社の中で生きるのには楽だからである。結局、同調圧力に押し潰され、自己を合理化して、人は社畜化されていく。日本ではよほど従順か、我慢強くなければ、社員は勤まらない。

 冒頭で紹介したEくんは、ここのところ腸の不調に悩まされている。時折り、酷い下痢になり、勤務時間中に病院に行ったり、会社の物置のようなところで身を横たえていることもあった。あまりに見ていて辛いので、一度、休みをとって精密検査を受けた方がいいよといったのだけど、返って来た答えは「会社を休みたくないです」というものだった。まだ、準社員になったばかりなので、休んだりすると上司に使えないヤツと思われるのではないかと心配しているらしい。上司も上司で、仕事の忙しいこともあるだろうが、何の声もかけず、彼の体調の悪いのを見て見ぬ振りをしている。とても、真っ当な人間関係ではない。

 どうやらEくんも社畜の道、まっしぐらである。その前に、心や体がおかしくなってリタイアということも考えられる。どうしたら社畜への道を回避できるのだろうか?(2013.7.21)


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