駅に向かうため、通勤路の一部になっているお寺の敷地内を歩いていたら、前の方から男の子とおばあさんが歩いてきた。そこはお寺の境内に繋がる坂道で、片側は切り立った崖になっていて木々が鬱蒼と茂っている。僕はその坂道を下り、男の子とおばあさんは上ってきたのだが、崖には石の階段の細い道がついていて、下れるようになっている。 男の子はその前で立ち止まり、「ここを下りてみたい」と後を歩いてきたおばあさんにいった。その石の階段は見るからに急で狭く、とても年寄りに下れるようなものではないので、当然、おばあさんは止めるようにいうものと思った。確かに、おばあさんは、男の子に止めるようにいったが、その理由は僕の想像と違っていた。 僕はおばあさんが、自分には下ることができないからという理由で男の子に止めるようにいうものと思っていたのだが、「自分も行ってみたいけど、帰りにこの階段を上るのは疲れるから止めなさい」といったのである。男の子は心残りがあるらしく、鬱蒼とした木々の中に続く階段を見つめていたが、諦めておばあさんにしたがって坂を上っていった。 僕は坂を下りながら、男の子を諦めさせたおばあさんの理屈に引っかかるものを感じ、いささか心配になった。これから先、何かやりたいことが見つかったとき、あの男の子が先の困難を予想して、回避するばかりの人間になったら困るなといらない心配をしてしまったのである。しかし、考えてみると人間社会というものは先のことを考えてみんなが行動しているから成り立っているのではないだろうか。 昔、読んだ相原コージのマンガに次のようなシーンがあった。毎日、毎日、客に行き先を指示されるタクシーの運転手がある日、ついにガマンできなくなり、客が乗っているにもかかわらず、「俺のいきたい場所に行く」といって車を勝手に走らせる。当然、後の客は「やめろ」と止めるが、運転手は「俺は行きたいところに行くんだ」と車を走らせ続け、やがて夜中の人っ子ひとりいない埠頭に到着する。しかし、自分の行きたいところに行った運転手に晴々とした表情はなく、自己嫌悪に陥っているのかうつむいている。そんな彼に迷惑をかけられた客は怒るでもなく「誰にでもあるさ」と慰めるのである。 みんながみんな先のことを考えず、そのとき自分のしたいことをするようになったら、どうなるのだろうか?朝、会社に行ったら、誰も出勤しておらず、行楽地は大賑わいだったりするかもしれない。電車やバスも運転手の頭数が足りなくなり、運行に支障を来たすかもしれないし、いろいろなお店も臨時休業の嵐になったりするだろう。 先のことを考えるということでは、最近話題になったアンジェリーナ・ジョリーの選択だろう。乳ガン発症率が高くなるという遺伝子の変異があること知った彼女は両乳房の乳腺切除手術を受けた。ガンになる可能性が健常人よりも高いということで、その危険を除去したのである。彼女は、乳房を犠牲にして、ガンになることを怖れながら生きるということはなくなったわけである。もっとも彼女の場合は、乳房にインプラントを入れることにより、多少傷が残る程度で、見た目は以前とほとんど変わらないらしい。ただ、別のリスクが、生まれてしまったような気がしないでもない。 よく考えてみると、僕たちは常に先のことを考えさせられ、それに従った行動を求められていた気がする。いい小学校、いい中学校、そして一流の高校、大学、大企業とやりたいことをガマンしながら、あるのか、ないのかわからない‘幸せ’を追い求め、結局、何が自分にとって幸せなのか、よくわからないまま人生が過ぎている。たいして面白くない仕事を毎日、毎日、長時間続け、働き過ぎで疲労困憊、たまの休日も家でごろごろと何のため生きているのかわからなくなってくるが、これも安定した老後のため、先の不安をなくすためである。 しかし、先のことばかりに囚われていると、いつしか、自分を無くしてしまうような気がする。将来の不安を除去することばかりに目が向くようになり、現在の好奇心や楽しみを封印するクセがつき、自分を見失い、‘教え込まれた幸せ’に捕り込められていく。 時には、崖を下り、鬱蒼とした木々の中に続く細い石段の先に何があるのか自分の目で、足で、確かめることも必要なのである。帰りに多少の困難があったとしても…。(2013.5.18) |