都会の片隅で

 6月3日、1995年に起きた地下鉄サリン事件等で特別指名手配されていた菊池直子容疑者が神奈川県相模原で逮捕された。菊池容疑者の供述により、一連のオウム真理教による事件の最後の逃亡犯となった高橋克也容疑者の潜伏先が判明し、警察が踏み込んだが、あと一歩のところで逃亡された。

 2001年7月から昨年の12月まで、実に10年間、高橋容疑者は川崎市幸区のマンションで生活をしており、マンションを転居後は川崎市川崎区にある勤務先の建設会社の寮で生活をしていた。このことは都会というものの性格を浮き彫りにした。

 地下鉄サリン事件の起きた当時、僕は埼玉県の会社に勤務していたが、その会社の本社が東京の水道橋にあった。最寄駅はJR水道橋であるが、地下鉄丸ノ内線の本郷三丁目や後楽園からも近く、アルバイトが数人、事件の被害者になった。幸いにして後遺症の残るほど重篤な被害は出なかったが、サリン事件は他人事ではなかった。そして、高橋容疑者が川崎に潜伏していたことを知り、サリン事件の実行犯が身近に潜んでいたことに驚いたというより、不思議な感覚を覚えた。

 彼の10年間暮らしていたマンションというのは、会社の同僚の住んでいるアパートからものの30秒のところにあり、彼の働いていた会社は妻の従妹の住んでいるマンションのすぐ近くだったのである。僕が現在の会社で働き始めて約9年の歳月が経ち、ひょっとしたら川崎の何処かで高橋容疑者とすれ違っていたかもしれず、会社の同僚や従妹の家族はさらに彼の近くにいたわけだからその可能性も高く、昔、職場のアルバイトがサリン事件の被害に合ったこともあわせて、考えていたら不思議な思いに囚われたのである。

 識者のコメントの中には、高橋容疑者が10年以上も同じ所で暮らし続けられたことについて、都会の人たちの無関心さを嘆いたものもあったが、菊池容疑者も高橋容疑者も手配写真と全く別人のような風貌になっていたため、関心があったとしても本人と見極めるのは困難だったように思う。ただ、確かに都会の人たちの隣人に対する無関心さは、孤立死などに顕著で、異臭がしてようやく発見されたり、中には死後5年以上経過して完全な白骨になっているケースもある。しかし、都会に暮らす人たちの他人に対する無関心さというものは、或る程度仕方ないような気がする。

 かなり前になるが、友人と渋谷駅の東口で待ち合わせをしたことがあった。現在はヒカリエが出来たが、当時はまだ東急文化会館の頃だった。その友人は遅刻グセがあり、そのときも待ち合わせの時刻を20分過ぎても現われず、僕はただ街頭に立って流れゆく人々を見ているしかなかった。初めはイライラしたが、そのうち現われては次々と立ち去っていく人たちを見ているのが楽しくなった。あまりにいろいろなタイプの人がいたからである。

 渋谷というと当時も今も流行に敏感な若者の街であり、一見するとそういう人たちばかりが集まっているようにみえるが、実際はそうでもなかった。こちらが恥ずかしくなるような明らかに流行遅れのプリントのされたヨレヨレのTシャツを着て堂々と歩いているおばさん、くたびれた背広を着てしょぼくれて歩いている中年男性、自転車の前かごに野菜を満載して一生懸命ペダルを漕いでいる主婦、大きな荷物を引きずりながら歩いているホームレス風の老人、ビジュアル系ロックバンドのような派手で奇抜ないでたちをした若者など、いろいろな人がいた。彼らは街に溶け込んで特に目立つこともなかった。都会は、ありとあらゆる人を飲み込んで、保護色にしてしまう。

 誰のものかは覚えていないが以前に読んだ本の中に、渋谷の乱立するビルもまた人間の作った自然であるというようなことが書かれていた。そう考えると都会とは人間という動物が、自らが最も暮らしやすいように作りだした自然の光景であるともいえる。暮らしやすさを追求すれば、快適さと便利さということになり、それにはまず自然の過酷さからの解放で、できるだけ自然災害から遠くなければならない。がけ崩れや河川の氾濫などをなくすため、山は切り崩され、川はコンクリートで固められ、下水道が地中を網の目のように走るようになった。ビルや移動の手段である車や電車の中は空調が行き届き、一年中快適である。

 そして、次に煩わしい人間関係からの解放である。田舎では人と人が、濃密に関わっており、干渉しあっている。母の実家では、裏の家との境界の揉め事が、世代がわりしても続いていたし、東京から引っ越してきた一家の話題で持ち切りだったこともあった。僕が農家に住み込んで働いていたところでは、先生同士の恋愛話や学校の子供の話題、そして政治とも都会よりも悪い意味で密接だった。人は都会をつくることで、人間関係の煩わしさから解放され、自由気ままに暮らすことを実現させたのである。

 そう考えると、都会では他人に無関心というのは、至極当たり前のことなのである。マンションで隣に暮らしている人のことを知らないなどということはよくあることで、僕も二番目に暮らしたマンションでは隣近所どんな人が住んでいるのか、全く知らなかったし、知ろうとも思わなかった。他人に干渉しないということは、同時に他人に干渉されたくないということである。

 年を取ったら田舎でのんびり暮らしたいという人もいるが、のんびり暮らすのに最適な場所は都会である。田舎に行ったら自然環境の厳しさと人間関係の煩わしさで、とてものんびりできるものではない。都会では本人が元気であれば、誰の世話になることもなく、便利に暮らしていける。しかし、それが孤立死を生む要因にもなっている。一人暮らしの容易なため、周りとの付き合いが希薄なる。

 とりあえず、逃亡犯は防犯カメラと警察に任せるとしても、孤立死はできるだけ減らさなければならない。郵便局や電気・ガス会社などと連携するなど、いろいろな方策が考えられている。しかし、結局はひとりひとりの意識の問題なのではないだろうか?近隣の人と会ったら、挨拶をかわすだけでも違ってくるはずである。どんな便利な社会になっても、死んだ後、誰の手も借りずに骨壷に入ることはできない。(2012.6.10)


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