With or Without 原発

 未曾有の被害を東北にもたらした東日本大震災から一年が経った。しかし、原発事故は暗い影を落とし続け、先の見えない状況が続いている。廃炉まで四十年ともいわれ、その長い道程を思うと絶望的な気分になる。福島第一原発では高い線量の中、多くの作業員が被ばく量を積算しながら日々を過ごし、自らの命を削りとられながら作業している。

 アメリカのベトナム戦争やイラク戦争のとき、前線に送られたのは職にあぶれていた経済的弱者だったのと同様に、原発事故でも職にあぶれた人たちが最前線の現場でガレキの処理等を行っている。短期間で限界の被ばく量まで達してしまうため、次々と人員を入れ替えていかなくてはならない。どれだけ多くの人が、被ばくするのだろうか?被ばく量に注意していても、リスクを背負ってしまう人はいる。

 福島第一原発周辺の地域では、多くの人たちが故郷を去ることになった。帰郷の目途は全く立っていない。二十年、三十年、人の住めない地域も出てくるのではないだろうか?何処かの大臣がゴーストタウンといって問題になったけど、映像に映し出された街はまさにそれのように思えた。日本の中に人の立ち入ることのできない土地を出現させてしまった原発の恐ろしさ感じる。

 ここにきて大震災発生時の原発の状況が作業員の聞き取り調査等で徐々に明らかになってきた。再現ドラマや事故調査員会の報告書などを見ると、この事故が人災だったことがよくわかる。原発事故は起きないという所謂安全神話のもと、必要な対策が全く講じられていなかった。津波の想定が甘く、そのため補助電源の設置位置は不適当なところで、海水をかぶって失われた。緊急時の可動式電源の用意もなく、このような事故の発生することを想定していないから、それに対するマニュアルもなければ、訓練もされていないというお粗末さだった。

 この事故を受けて、全国の原発でストレステストが実施されているが、国民には不透明なままである。そして、ここにきて原発の再稼働がいわれるようになってきた。現在動いている原発は北海道電力の泊原発三号機と東京電力の柏崎刈羽原発六号機の二基だけで、再稼働がないとすると四月下旬には全ての原発が停止することになる。昨年の夏、原発は全国で十五基稼働していたが、このままでは、今年の夏に稼働している原発はなくなり、関西を中心に電力不足が懸念されている。

 昨年、大震災の後、関東地方では電力不足に陥る恐れがあることから、計画停電が実施された。四月に入ってからは気候が暖かくなってきたため、計画停電は終了したが、電力消費量の増える夏が心配された。しかし、昨年の夏、計画停電は行われなかった。電力は足りたのである。

 休止していたり、震災で被害を受け止まっていた火力発電所の稼働、新たなカスタービンの設置、揚水発電の活用、さらには工場や会社、そして一般家庭の節電などにより、何とか乗り切ることが出来たのである。しかし、電力が足りるとなっても、火力発電に依存することは大きなリスクを伴うことになる。

 まずは原油の高騰による電気料金の値上げである。東京電力は四月から企業向け電気料金を、平均17%値上げを実施する。これにより、百万単位で電気料金の増える中小企業も多く、経済に悪影響があるのは必至である。

 そして、イランの核開発疑惑による欧米の経済制裁の報復として、イランがホルムズ海峡を封鎖すれば、原油の流通が混乱することも考えられる。さらに、経済制裁がうまくいかない場合、アメリカはどのような選択肢も排除しないと言明しており、軍事行動に出る可能性もある。

 原発の是非を議論するときに、よく命が大切か、経済が大切かという問題の立て方をして、結局は命が大切だというお決まりの結論になるが、この問題はそう簡単に割り切れるものではない。脱原発派は命を、それに慎重か原発推進派は経済を優先していると、単純にいえるものではない気がする。現代社会では経済は命に直結しているからだ。

 慢性的な電力不足による大手企業の工場の海外流出、中小企業の経営の悪化、外資系企業の撤退、それに伴う国内産業の空洞化、そして雇用の悪化という経済産業省のシナリオについても、原発を守るための嘘と直ちに排除するのではなく、真剣に考えなくてはいけない。

 原発事故によって周辺の住民、そして農業や漁業は大変な苦しみと大きな損害を受け、原発内で働いている人たちの被ばくの問題もある。原発を止めると、慢性的な電力不足と電気料金の値上げによる企業の経営の悪化、それに伴う海外移転や廃業、リストラなどで、多くの人が職を失い、苦しみを受けることも考えられる。原発があっても、なくても、そのツケは常に弱者に回ってくる。正に絶望的な状況である。

 原発などなくしてしまえとお気楽にいえるのは、社会的強者である。テレビのコメンテータと呼ばれている人がまさしくそれで、彼らは電力不足になっても、電気料金が高くなっても、ほとんど痛まないのだ。計画停電がきっかけになり、僕のやっていた仕事は無くなってしまった。原発が次々に止まり、それによる電力不足が、雇用の悪化を招くとしたら、原発のない世の中がいいとは思いながらも、それに簡単に飛び付けない。

 東日本大震災による津波により、福島第一原発は全電源を失い、悲惨な事故を起こした。現在、稼働している原発がこのような事故を起こさないとはいいきれない。いや、いつかきっと同じようなことが起きる気がする。事故の起きた時、人の手の負えないような事態になるものを、稼働するというのは大変危険なことで、また多くの人に苦しみを与えることになりかねない。原発に依存しない社会をめざすという方向性に反対する人はほとんどいないものと思われる。問題はそういう社会基盤のできるまでの期間であり、本当にそれが可能かという検証である。

 政府として原発を再稼働しないという選択肢はないものと思われる。原発の再稼働をしないという決断は英断であるが、同時に蛮行でもある。英断と蛮行は、隣り合わせに存在している。政治家は、評論家とは違い、この国の行く末の責任があり、総合的に物事を判断し、決断しなくてはならない。最小不幸社会に近づけるためには経済発展は不可欠で、そのためには安定的で出来るだけ安い電力の供給が必要である。もちろん、それが原発である必要はない。しかし、現実問題として代替手段がないとすれば、可能な限り安全を追求したうえで原発を稼働させるという選択はやむを得ないように思う。

 自転車操業という言葉があるが、高度に発展した現代社会は安全と経済のバランスをとって何とか倒れないように走り続けるしかない。どちらに傾くにしろ、最初に苦しみを受けるのは常に弱者である。(2012.3.18)


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