雪やこんこん

 先日、関東に降った雪は神奈川県に11年振りの大雪警報を発令させたが、そのわりには大したこともなく、横浜の積雪は5センチだった。今年は近年にない寒い冬で、雪の舞うことも多く、横浜では今回が2回目の積雪だったが、最近では雪が積もるということがあまりなくなった。

 テレビを見ていたら、インタビューを受けた子供が「僕が生まれてから、こんな雪の降ったのは初めて」とうれしそうに話していた。この子に限らず、インタビューを受けた他の子供たちも「雪合戦ができる」「雪だるまをつくる」と喜んでいた。それに対して、大人は一様に迷惑そうな表情をしていて、うれしそうな人はいなかった。しかし、ほんとうに大人たちは雪が降ってうれしくないのだろうか?

 少なくても、僕は雪が降るとわくわくしてしまうのである。これは、どうしようもない。仕事中もついつい気になって、必要もないのに非常階段のドアを開けたりして、雪がまだ降っているか何度か確認した。そして、雪が激しく降っているとうれしかった。

 東京も僕が子供の頃は、随分と雪が降った。そして、雪が積もると、体育の時間は雪遊びの時間になり、クラスのみんなで校庭に出て雪合戦をしたり、雪だるまをつくったりした。家に帰ってからも、玄関の前に雪だるまをつくったり、雪をボール状にして冷蔵庫に入れて、保管したりした。

 昔は年に一度くらいは10センチくらいの積雪はあったように思う。調べてみると、二・二六事件のあった昭和11年は積雪の多かった年のようで、二・二六事件のときも35センチの積雪があった。記憶に残っているのは、僕が専門学校に通っていた1984年で、この年もよく雪が降り、1月から3月まで路面から雪の消えることがなかった。気象庁のデータを調べてみると、この年は合計で92センチの積雪が東京であったようである。

 子供の頃、雪が降ってうれしかったのは、雪で遊べるということが大きかったように思う。では、大人になって、雪が降っても雪合戦をすることもなく、雪だるまをつくることもないのに、何故、僕はうれしいのだろうと考えてみると、まず第一に雪の降っている景色が美しいからである。しかし、より大きな理由は非日常の世界を垣間見られるからだと思う。

 雪国の人にとって、雪は日常であるが、関東の平野部で暮らしている人にとって、雪は非日常である。延々と続く閉塞感に包まれた日々が、わずかながらも壊れる気がして、それが待ち遠しいのである。常々、日常から脱出したいと願っている人間にとって、雪は天から垂らされたロープのようなものだ。しかし、いつもそのロープは途中で切れてしまい、また、鬱陶しい日々に戻されてしまう。

 それは子供のときにすでに感じていたことなのかもしれない。ただ、雪で遊べるだけでなく、雪の降ることによって時間割が変更になったり、授業が切り上げられたりと非日常的な事が起きて、開放感を覚えたものだった。僕にとって雪は日常から逃避行させてくれるツールである。

 テレビのインタビューで雪の降るのを迷惑そうに話していた大人たちは、本当は雪の降るのが愉しい気はするが、大人という手前、本心を隠して分別ある大人を演じているか、さもなければ日常にどっぷりと浸かり、身動きのとれなくなっている人である。そして、仕事との関わりも大きいように思う。

 幸いにして僕は今まで、雪が降って影響の出る仕事に就いたことがない。しかし、雪によって仕事に影響が出る人は、とても歓迎する気にはなれないかもしれない。うちの会社でも配送をしている人は、苦々しい表情をしていた。しかし、そんな彼らでも、困った、困ったといいながら、どことなく楽しそうだった。

 雪がある程度降ると、雪に慣れていないところでは、多かれ少なかれ、通常通りにはいかなくなる。それが、許せない人も中にはいる。電車が数分遅れただけで、駅員にくってかかるような人たちである。便利な日常に慣れ、それが少しでも狂うといらいらしてしまうのだ。彼らは一見できる人たちであるが、システムにがんじがらめに縛られている人たちでもある。

 雪の降ったときくらい、心を大きく持って、非日常の世界を楽しんでしまえばいい。そうすることによって、少しずつ、人間らしい心が戻ってくるように思う。まあ、いいオヤジが、雪を見て喜んでいる姿は気持ち悪いかもしれないが…。(2012.3.4)


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