優しさを失った社会

 昨年の秋、繁忙期に合わせて雇われたパートの男性が解雇された。繁忙期に雇われたパートさんはその時期だけの短期契約の人も多いが、彼は部署に男性が一人しかいないため、その人の補佐を期待されていたので、長期契約になるものと僕は思っていたし、彼もそうだった。しかし、急遽、他の事業所から社員が来ることになり、「もう必要ない」と判断された。

 このようなことは何処でも起こっていることで、多くの人は大した違和感を覚えることはないと思われる。場合によっては切られる本人ですら、仕方ないと諦めている。システマティックな今の社会の仕組みでは、すべてが合理化され、人々はそれを当然と受け止めるようになり、人を思い遣る心を無くしているように思える。会社を辞める時でさえ、極めて事務的に処理される。

 以前は多少、事情は違っていた。僕はいくつも会社を辞めているが、辞める時には必ずといっていいほど、今度、どうするつもりなのかということを訊かれた。親身になってアドバイスをしてくれた上司もいるし、今は次の仕事なんてなかなか見つからないぞと忠告されたこともあった。上司も部下の行く末を心配する心のゆとりがあったように思う。あっさりと退職を受け入れられたのは、いずれも短期で辞めてしまった会社だった。

 そこにいくとパートで働きだしてからは、人間的な扱いをされていないような気さえしてくる。現在働いている会社と再契約のとき、会社側は一年ではなく十一カ月で契約をするようにといってきたことがあった。つまり、閑散期の二月か八月に一カ月の休みをとってくれというわけである。

 当然その間は無給になるため、そのことを会社にいうと、「会社は君たちの生活のためにあるんじゃない。短期のバイトでも探したらいいだろ」という答えが返ってきた。結局、ほとんどのパートから不満が出たため、この案は実施されなかったが、それにしてもよく平気でこのようなことを思いつくと呆れる思いがした。

 パートの中には主婦も多く、一月休んでも問題ない人もいるが、中には一人で子供をかかえている人もいるし、この会社の給料だけで生活を成り立てている人もいる。そういう人のことを思えば簡単に一月休みとはいえないはずである。会社とは利益を追求するものであるという意見はあるだろうし、場合によっては、そうでもしなければ生き残れないということもあるだろう。しかし、その中にあっても、そこで働いている人のことも考えなくてはならないのではないだろうか。

 以前、テレビで極寒の地で暮らすホームレスの特集があった。北海道だったと思うが、ひとりのホームレスがホテルのロビーに入って暖をとっていた。ホテルの従業員はその人を雪の降りしきる外に追い出した。これは当然の行為のように思える。僕がホテルの従業員でも同じことをしたかもしれない。しかし、ここで考えなくてはならないのは、外は極寒ということである。追い出されたホームレスは凍死してしまう恐れがある。

 いくら目立たないところといってもホテルのロビーに入り込まれるのは困る。しかし、外に追い出せば凍死してしまう恐れがある。この二つの状況を考えた時、ホームレスのこと思い遣ることができれば、外に追い出すという選択肢の他に別の選択肢があるはずである。しかし、自身の業務を遂行するだけで、その他のことに思いがいかないのが現実のように思う。

 勤務している会社のある街中でよく真ん中に鉄製の仕切のあるベンチを見かけるようになった。これは、ホームレス対策で、ベンチで寝られないようにするため、そのようなことをしているのである。このベンチを見るたびに、ケチくさい人間の本性を見るような思いがして嫌な気分になる。

 人も企業もゆとりを失って、自分のことだけで汲々としているように思える。優しさを失った社会とは、自分さえよければといいという社会ではないだろうか。一年前、大震災が起き、改めて人の繋がりの大切さが実感されるようになった。その気持ちを、いつでも持ち続けることができれば、世の中も変わっていくように思う。少しずつでも温かい社会になっていくことを願いたい。(2012.2.5)


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