東北関東大震災以来、福島第一原子力発電所の事故が暗い影を落とし続けている。原発の周囲20Km圏内に退避勧告、首都圏でも通常の数十倍の放射線を観測、福島産の原乳から暫定規制値を上回る放射線物質を検出、高濃度の汚染水が海に流出等々の報道を目にすると、とにかく不安になってしまう。 東京で通常の二十倍の放射線量が検出されたというニュースの流れた日には、普段はしないマスクを着用して通勤し、外の非常階段を使っていたパート仲間に「あまり外には出ない方がいい」と注意したりした。そういえば、子供の頃、何処かの国が核実験を行った。その影響で放射能の雨が降るかもしれず、それが頭に当たるとハゲになると聞いた記憶がある。これは子供たちのうわさ話というだけでなく、いい大人も話していたように思う。 しかし、僕は現在でも放射能の雨が頭皮に当たると、ゆくゆくはハゲになるのかどうかはっきりとしたことがわからない。つまり、僕の放射能に関する知識は小学生の頃とあまり変わっていないのである。このような乏しい知識では、不安に思うなという方が無理だ。 知識がないと、人は二つのミスをする可能性がある。一つは、危険なものを危険と判断できず、近づきすぎてしまうこと、もうひとつは大して危険でないものを危険だと思い込み、遠ざけてしまうことである。 茨城産ほうれん草から、暫定規制値を超える放射線量が検出されたという報道のされた日、僕は近所のスーパーで茨城産ほうれん草を買った。それは、その日の料理に必要なものだった。そして、スーパーには茨城産のものしか置いてなかったのである。もし、他の産地のものがあったら、そちらを買っていたと思うが、テレビで流通しているものに関しては安全だと報道されていたし、放射線に関する専門家という人が、出荷制限になっているものでも、このくらいのレベルなら私は食べますよと話していたので、まあ大丈夫だろうと思ったのだ。 家に帰って来て、僕がほうれん草を買って来たのを妻は見ると、すぐに産地を確認し、それが茨城だとわかると、「私は食べない」と言い始めた。僕がいくら「これは大丈夫だ」といっても、「私は食べない」の一点張りで、どうしようもない。仕方なく、そのほうれん草は三日間かけて、僕が食べた。 このことに関し、僕は政府の発表や学者の意見を信じ、妻は信じなかった。僕が無知がゆえに危ないものに近づいてしまったのか、妻が過剰反応をしているのかのどちらかである。想像するに、多くの人は妻と同じ行動をとるように思われる。それは、たとえ大丈夫であったとしても、わざわざ危なそうなものに近づく必要はないからである。‘万が一’とか‘念のため’ということに普通はなる。そう考えると、風評被害というものを避けることは難しい。 ほうれん草は食べた僕でも、都内で通常以上の放射線が観測されたと報道された日には、健康には全く影響はしないレベルという発表にもかかわらず、マスクをして外出している。これも‘念のため’というヤツである。現在は情報が溢れているため、前に書いた二つのミスのうち、後者の方に人は流れていくように思う。情報に関して過剰反応しやすくなっているのだ。そして、一部メディアも商売の観点から、必要以上に危機を煽っているような気がする。 大切なのはできるだけ正確に現状を見極めることである。ただ、それは放射性物質という得体の知れないものの知識を持たない僕にはとても難しい。僕にできることは、できるだけ多くの意見に耳を傾け、情報を集めることくらいである。その上で、判断をしていくしかない。 また、震災以来、続いている自粛ムードにここのところ否定的な意見が出始めている。過度な自粛は日本経済を停滞させ、返って被災地の復興にマイナスになるというものである。それに対して、自粛を求める人たちは、被災者の心情を考えて浮かれた行動は慎むべきという意見である。身近なところでは、四月に予定していた妻の女子会が延期になり、職場の人の入籍祝いの会が中止になったりした。 大きなイベントなどは、被災者の気持ちを慮ってというだけでなく、いろいろな事由によって中止や延期になったりしているのだろうけど、個人レベルでは‘とても、騒ぐ気になれない’という気持ちが強く、それが自粛に繋がっているように思う。 震災以来、テレビに映し出された凄まじい津波の映像、瓦礫の山となった被災地、体育館などに避難している被災者の姿、そして、連日続く原発の報道や計画停電、そういった環境で生活していると、心も体も疲れて、陽気にはしゃぐ気分にはなれないのである。 僕は東北が何故か好きで何回も旅行している。その東北の無残な姿を見ていると、遣り切れない喪失感で胸がいっぱいになる。まして、その地で暮らし、多くのものを奪われた人たちの心情を想うと、何もいえなくなってしまう。 みんなが自粛をしていたら、経済が悪くなるといった論理は正しいのかもしれない。しかし、自分の自然な気持ちとして、今はただ静かに喪に服していたい。(2011.4.9) |