消えた高齢者

 先月末、東京都足立区で、生存していれば111歳で都内男性の最高齢者とされていた老人の遺体が自宅から死後約30年経過したミイラ状態で発見された。家族の話によると、この男性は30年前、即身成仏したいと1階自室に引き籠り、それ以来、部屋を出てこなくなったが、部屋を覗くと怒られると思い、何もしなかったという。今年の3月に部屋のドアが開いていたので、覗くと白骨化した頭部が見えたというが、区の民生委員の訴えを受けた警視庁千住署の署員が区職員らと自宅を訪問した際には「祖父は元気に暮らしている。2階で寝ているが、誰とも会いたくないと言っている」などと話していたそうだ。

 この事件を切欠に、全国で所在不明の100歳以上の高齢者の存在が次々と発覚し、その総数は現在で70人を越えている。113歳で都内最高齢者とされていた女性の場合は、住民票に登録されていた住所に住んでいないことが判明し、そこに住んでいる長女の話によると「母と最後に会ったのは87年頃で、何で住民票がそうなっているのかわからない。弟といっしょに住んでいるものと思っていた」と話し、弟は「もともと千葉県市川市内のアパートで母親と一緒に住んでいた。母親は30数年前に、アパートからいなくなった。その後の行方は分からない」と話し、都内在住の次女は「約40年前から母、姉、弟と連絡を取っていないので、今、それぞれどこにいるか分からない」と話したという。

 都内で最高齢とされていた男女が共に、生存していなかった可能性が強く、いなくなった時期も約30年前と共通している。行政の怠慢という指摘もマスコミではされているが、事の本質はそうではなく家族間の恐るべき無関心さということにあるように思う。

 足立区の場合、家族の談話を信じるとすれば、部屋に閉じ籠り切りになった父または祖父に家族の誰もが、関わろうとせず、放置したということになる。普通だったら1日でも部屋に閉じ籠り切りになったら、心配になり、誰かが声をかけるものだが、約30年にも亘ってそれを誰もしなかったというのは、現代社会の病巣の深さを目の当たりにしたような気分になる。

 杉並区の場合でも、母親がいなくなったというのに、次男は誰にもそれを連絡していない。もし家族の誰かがある日いなくなったら、普通は立ち寄りそうな親戚や友人宅に連絡を入れて確認し、それで所在がわからないときには警察に捜索願を出すものと思われるが、こちらも全くの放置だった。どういう心境だったのか、まるで想像がつかない。長女のところに住民票があり、それを彼女は知らなかったというのだから、その言葉を信じると、次男は母が長女の元に身を寄せたと思って、移動させたのかもしれないが、それにしても、母が本当に来ているのか長女に確認するのが常識だと思われる。

 今までも年金の不正受給が目的で、亡くなっているのに死亡届を出さなかったというケースはままあったが、今回の一連のことは重なる部分もあると思うが、本質的に違うような気がする。まだ、年金の不正受給が目的で、死を隠匿する方が、ましのような気がする。目的がはっきりしているだけ、そこに至る心理は理解しやすい。

 「そのうち帰ってくると思う」、「知人の別荘にいるはず」、「30年前に出て行った。放浪癖があった」「ふらふらと出歩く癖があった。もう4、5年も見ていない」所在不明の高齢者が判明した家族の言葉である。もし生きていれば110歳になる父親が所在不明ということが判明した息子は「知人の別荘にいるはず」と回答しているが、その知人の別荘に父が行ったのは30年前で、その後連絡は一切取っていないという。別荘に行くといっても夏の暑さを避けるためか、冬の寒さから逃れるためだろうから、通常は一月か二月くらいの期間だろうし、ましてその別荘は知人のものなのだから、行ったきりになるというのは、どう考えてもおかしなことである。しかし、息子は30年間音信不通でも、何もしていないのだ。「ふらふらと出歩く癖があった。4、5年も見ていない」というのも全く異常な話で、普通なら一日見なくても、そういう癖があるのなら近所を捜したり、警察に届けを出すものだ。高齢の親や祖父母がある日いなくなっても捜す気もなければ、警察に捜索願も出さないという寒々しい景色が浮かんでくる。

 これはもう行政の怠慢とか、個人情報保護法の壁とか、システム上の不備といった問題ではなく、社会というものを構成する最小単位の家族までもが崩壊していることを物語っているように思う。消えた高齢者だけでなく、その兆候は幼児にも現われている。大阪で2人の幼児がマンションの一室に放置され、死亡した。母親は、ホストクラブに嵌り、子供を育てることが面倒臭くなってしまったらしく、二人の子供を一月も置き去りにしたまま、友人宅を泊り歩いていた。取り調べに対して「水も食糧も与えなければ死ぬことはわかっていた」と供述しているという。

 石原都知事は楢山節考に喩えたが、まだ雪の降るのを願いながら老母を背板に乗せて山に捨てに行く息子の方が血肉の通っている気がする。現代の姥捨ては実にあっけらかんとして、何の葛藤も感じられない。自分のことだけで、他の人のことを思いやる気持ちが失われてしまっている。自分以外はどうでもいいのだ。

 この一連の出来事は、他者に対する無関心さと利己主義の行きついた果てのような気がする。家族は大切といいながらも、仕事や自身の楽しみだけに没頭し、いつしかそれを妨げるものを疎ましく思うようになってしまったのではないか?世話をしなければならない高齢者や幼児は、自分のやりたいことを妨げる邪魔な存在として映るようになってしまったのではないか?仕事、仕事の父親や、自分の楽しみを最優先する母親のもとで、両親との濃密な時間を持てないまま子供は育っていく。そして、今度はその子供が親になり、ますます、人と人との関係が希薄になり、家族同士が遠い存在になっていく。これはもうどうすることもできないように思う。全く絶望的である。

 これは決して他人事ではない。僕にも高齢とまではいかないが、一人暮らしをしている母がいる。今日の夜、電話を入れてみようと思った。(2010.8.8)


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