不安の正体

 テレビニュースで富士の樹海での自殺者の特集を放映していた。テレビの画面には50代と20代の自殺志願者が映し出された。どちらとも男性で50代の人は独身で身寄りもなく、現実の辛さから逃れたいがために、20代の人は妻子がいて、仕事がうまくいかず、樹海へ来たという。ふたりとも自殺するつもりだったが、なかなか樹海の奥深く踏み入ることができず、逡巡しているところをテレビクルーに発見された。この特集を見て、以前のことが思い出された。

 11年間勤めていた会社を辞め、失業していた頃、死にたいと思ったことが何度かあった。しかし、僕は臆病な人間で自殺することなどは、とてもできそうになかったから、心臓発作でも起きてくれないものかと考えたりした。不思議なもので、そんなことを考えると、心臓が悪いわけでもなかったのだけど、夜中に胸が締め付けられて苦しくなることが数回あった。もっともこれは、なかなか次の仕事が決まらないストレスが原因かもしれないが…。

 仕事のなかなか決まらない不安から、死を考えるようになるとはどういうことなのだろうか?職探しに疲れて…と普通はなりそうだが、実はこの頃、僕は大して就職活動をしていなかったのである。それにも関わらず、自分に合った仕事に就けないのではないか、いや、そもそも、仕事がみつからないのではないかという強い不安感があった。

 さらに仕事に就けない不安だけでなく、仕事に就いた後、うまくやっていけるのだろうかという不安も強かった。仕事そのものはそれがどんな業種であれ、採用されれば何とかなると思っていたから、あまり心配はしていなかったのだけど、新しい職場の人たちとの人間関係に強い不安感があったのである。不安に支配され、心が凍りついたようになっていた。

 しかし、生活は余裕があるというほどではなかったが、決してすぐに困窮するという状態でもなかった。11年間、勤めていたので10カ月ほど雇用保険は出るし、それまでの会社勤めで貯金もまずまずあり、2年くらいは収入がなくても暮らせる見込みがあった。今、考えれば、すぐにいい仕事が見つからなくても、とりあえずアルバイトでもして多少の収入を得ていれば、5年くらいはどうにか、こうにかしのげるはずだから、多少の不安は仕方ないが、死を思うほどのそれは明らかに過剰なものだった。

 僕の感じていた不安には実体がなかったように思う。実体のある不安とは、それが現実として起きているか、或いは将来かなりの確率で起こることに対してのものである。確かに、当時の僕は30代後半で他人に誇れるほどの経験もなく、大して能力もないのだから、仕事を探すとしてもかなりの困難が予想された。しかし、ほとんど努力もしないうちから、無理だと考えてしまうのはあまりに非現実的だったように思う。

 職種或いは待遇面で自分の望むような仕事に就くことは、難しかったかもしれない。しかし、自分の出来る仕事ということになれば、時間はかかるかもしれないが、いつかは見つかるものである。結局、辞めてしまったが、死を思うほどの強い不安感を覚えてから、約2ヶ月後にとりあえず正社員として就職することができたのだ。

 不安が先走ると、物事を深刻に考え過ぎてしまい現実と遊離していく。適確に自分の状況を判断できなくなると、極端な結論に走ってしまう恐れも出てくる。しかし、なかなか現実を見据えて、物事を的確に判断するのは難しいことのように思う。特に実体のない不安はほとんど空想だから、底なし沼のように人を引きずり込む。非現実的なことでも、それを思い込むことによって、自分の中では現実となり、深い絶望感を覚え、そこから逃れるために極端な手段をとることを考えるようになる。

 不安を振り払うには、地道な努力を続けるしかないように思う。失業していた当時の僕は死を思うよりも、ハローワークに足繁く通い、求人誌などにも目を通して、出来そうな仕事を見つけたら応募するということを続けるしかなかったのだ。よく、努力が足りないから結果が出ないのだという声を聞くが、多くの場合、足りないのは努力ではなく、時間なのだ。不安というのは時間の重さなのかもしれない。時間の重さに耐えられないと、早く結論を求めたがるのだ。

 ひとつだけ確かなことがある。それは、人は必ず死ぬということである。何十億お金を持っていようが、ホームレスだろうが、楽しい人生を送っていようが、辛い人生を歩んでいようが、そんなことに関係なく人はいつか必ず死ぬ。そう考えれば、どんな状況であっても、いつかは死ぬ自分を遠くから眺める余裕ができるように思う。(2010.4.10)


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