遺骨拾い

 父の亡くなった後の数日間、叔父や弟に高校生時代や晩年の父の姿を聞くうちに僕の心の中に長い間巣食っていた父の像が崩れて行った。僕の子供の頃、父はずっと働いていた。休みを惜しんで働いていた。その姿は家族のためといったレベルをはるかに超え、仕事中毒と思われるほどだった。

 仕事から帰ってきた父はいつも疲れていた。夕食をとり、ビールを飲み、そしてナイターを観ていた。よく足の裏やふくらはぎをビール瓶で叩くようにいわれ、いやいややっていた。たまの休日も家でごろごろしてばかりで、何処かに連れていってもらった記憶はほとんどない。

 しかし、叔父によると高校時代の父は映画に夢中になっていたという。父は高校生の頃、夕食を終えるとまだ小学生であった叔父を連れて大森にあった映画館までよく映画を観にいったそうだ。映画はだいたいが西部劇で、小学生だった叔父は洋画には興味はなく、また字幕もよく読めなかったため、退屈で寝てしまったが、映画の終わった後、父が食べに連れて行ってくれるので、いつもいっしょ行っていたという。父は叔父の食べたいものを訊き、何でも食べさせてくれたそうで、それ以外にお小遣いを使うことはなかったそうだ。

 そういえば僕が子供の頃、ナイターの終わった後、テレビで映画の放送があれば父は必ず観ていた。当時、民放ではどのテレビ局でも洋画を午後9時から放送していた。僕の記憶では月曜日はTBS、水曜日は日本テレビ、木曜日はテレビ東京、金曜日はフジテレビ、そして日曜日がNET(現テレビ朝日)だったと思う。しかし、弟によると父は60年代以降の映画には全く興味を示さなかったという。父にとって想い出の映画とは高校生のとき叔父といっしょに映画館で観た映画だったのだろう。

 父の後半生、いっしょに暮らしていた弟も、父は面倒見がよかったと言っている。叔父の奥さんによると、贈り物をすると必ず丁寧な電話があったそうだ。そういう話を聞いているうちに、僕にも思い出したことがあった。

 小学校高学年の頃、僕は野球に夢中になっていて学校の友達や弟と子供だけでチームを作った。正式な大人のコーチはいなかったのだけど、いつも練習するグランドによく来ていた40代後半くらいのどもり癖のある男性が勝手にコーチのような存在になった。コーチといってもその男性は特に野球に詳しいわけではなく、あまり役に立ったということはなかった。ただ、面白いから何となく、話を聞いている程度だった。

 ある日、他の少年野球のチームと試合をすることになった。そこは、お揃いのユニホームを着て、しっかりとした監督もいるチームで、得体の知れないおっちゃんがコーチのようになっている僕たちのチームとは見た目から雲泥の差があった。どもりのおっちゃんが急遽監督になり、当日の采配を取ることになったが、彼はただ声を出しているだけで実際の指揮はみんなの合議で決めた。

 予想通り、試合は惨敗した。家に帰ってくると父が「ああいうときは、グローブをこういう角度で出さないとだめだよ」とか「一番バッターは打つことよりも、塁に出ることを優先しないとな」とかいろいろと言ってきた。父は僕のチームが試合することを聞き、こっそりと何処からか観ていたのである。しかし、そのときは父の言い方があまりにも今でいう上から目線だったものだから、素直に聞くという気持ちより反感の方が強くなった。僕も人間関係で不器用だが、今思うと父は僕以上に不器用だったのだ。

 父は全てにそうだった。うまい言い方ができず、人を馬鹿にしたような口調になるか、怒鳴るかのどちらかで、穏やかにゆっくりと話すことのできない人だった。もし、父に多少の器用さがあったら僕たちの関係も違ったものになったかもしれないと思うと、寂しい気がした。

 叔父の話しによると父は漢字が好きだったそうで、よく辞書を見ていたという。弟もわからない漢字があったときは父に訊くと大抵教えてくれたそうだ。僕も以前、仕事で旧字をよく調べたりしていた。もし、父が多少でも自分のことを話していてくれたらと思った。

 父の遺骨は肉体労働をしていた人の常で、骨量が多く詰めないと骨壷に収まり切らなかった。今、僕は父の遺骨を拾いきれずにいる。(2009.12.6)


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