どういうわけだか、昔、よくCDを聴いていたあるアーティストが頭に浮かび、彼女は今どうしているのだろうかとネットで検索してみた。こういうときにネットは本当に便利である。もしネットがなかったら、調べようがない。彼女は結婚して姓が変わっていた。そして、アルバムとしては前作から10年振りという作品を2007年に発表していた。彼女の曲を初めて聴いたのはもう15年以上前になるだろうか、確か車の中だった。 …1993年、当時の僕は車でドライブをしながら、FMラジオを聴くのが好きだった。いや、ラジオを聴くために、ドライブをするといった方が的確かもしれない。ドライブに行く場所も決まって千葉の富津岬だった。何故、千葉方面だったかというと、当時、最も仲の良かった友人が千葉県在住だったため、彼の家に遊びに行く途中でbayfmの番組をよく聴いていたからだ。bayfmは千葉県のFM放送局なので、電波の入りが良かったのである。 よく聴いていた番組は、現在も続いているPOWER COUNTDOWN JAPAN HOT 30で、ディスクジョッキーも現在と同じくバッキー木場だった。この番組は日本のアーティストの楽曲をランキング形式で発表していくものだ。 当時、住んでいた家から富津岬までは片道50Kmくらいだった。お昼を食べた後、2時くらいに自宅を出発して、首都高湾岸線に乗り、千葉方面に向かうと、都内では頼りないbayfmの電波が徐々に強くなっていくのが感じられ、ちょっとした旅情を味わうことができた。 バッキー木場の番組は3時からだったので、その頃には、どんなに渋滞が激しかったとしても千葉県に入っており、雑音に悩まされることもなく、ラジオを聴くことができた。そして、その日の交通事情にもよるが、Top10の曲が流される頃、富津岬に着いた。富津岬の駐車場に車を止め、シートを倒して、流行りの曲を聴いていると、何ともいえない安らいだ気分になれた。 その土曜日もラジオが聴きたくなり、車に乗って家を出た。家の近くではbayfmはあまり入らないので、始めはFM東京を聴き、首都高に入った辺りでbayfmに周波数を合わせた。30位から曲の発表が始まったが、番組の途中でゲストが紹介された。僕の知らないアーティストだった。そして、少しのおしゃべりの後、彼女のニューシングルとの紹介があり、曲がかかった。その歌を聴いて僕は衝撃を受けた。 自分の内面をさらけ出した自虐的な詩が激しいロックのリズムに乗せて、歌われていた。強烈な言葉が次から次へと吐き出され、それに圧倒されてしまった。‘失格’という曲で、歌っていたアーティストは橘いずみという女性だった。 僕はすぐにCDを購入した。彼女は日本人アーティストとしては特に女性には珍しいロック系アーティストだった。女尾崎豊とも呼ばれていたようである。‘失格’があまりに強烈だったため、ついつい見落としてしまいがちになるが、彼女はただ過激な歌を歌うロック歌手ではなく、すぐれたソングライターでもあった。そして歌唱力も素晴らしく、テレビ出演しているときは彼女の声量の前に他の歌手が霞んでしまうほどだった。 僕は彼女のアルバムが発売されるたびに買うようになった。特に3thアルバムの「太陽が見ているから」は素晴らしい出来で、僕の持っている日本人アーティストの中でも最高のものだった。しかし、1995年に発売された5thアルバム「十字架とコイン」を最後に彼女のアルバムを買うことはなくなった。 何故、彼女のアルバムを買わなくなってしまったのか、一言でいってしまえば彼女の曲を聴くのが辛くなってきたのである。彼女の詩の中にある青臭さがどうにも受け入れ難くなってきて、気恥ずかしさを覚えるようになってしまった。彼女はその後、2枚のアルバムと3枚のミニアルバムを発表したが、そのことを僕は全く知らなかった。 …何故、今頃になって橘いずみが気になったのか、自分でもよくわからないが、ふと、今はどうしているだろうと思い、もし、何か活動しているのならHPがあるはずだと考え検索してみた。橘いずみは映画監督で俳優の榊英雄と結婚して榊いずみになっていた。そして、2007年にフルアルバムとしては10年振りの「Family Tree」を出していた。 HPでは「Family Tree」に収録されている曲‘Family Tree’と‘つまらない世界’のPVが観られるようになっていたので早速‘Family Tree’をクリックしてみた。そのPVを観て、‘失格’を聴いたときとは別の衝撃を受けた。 それは彼女の変化に対する衝撃で、高校生時代の同級生に10年振りくらいにあって、当時は暗く悩み苦しんでいたその友人が、今は明るくはつらつとしたお母さんになっていたというようなものだった。‘失格’と‘Family Tree’との落差は感動的でさえあった。You Tubeで観ることのできる‘失格’や‘太陽’のライブと‘Family Tree’のPVを続けて観てもらえればわかると思う。 出会いによって愛が生まれ、それを大切に育てていこうと明るく力強く歌った‘Family Tree’は、素晴らしい出来だった。僕はほとんど毎晩のように彼女のHPにアクセスしてそのPVを観た。しかし、CDを買うのは躊躇われた。それはがっかりしたくないという気持ちがあったからである。 ‘Family Tree’は確かにいい曲だが、アルバム全体が素晴らしい出来かと想像すると、その可能性は低いように思われたのだ。それは彼女に限らず日本人アーティストのアルバムを買った時、ほとんど例外なく感じるものだった。ラジオなどでいいなと思ってその曲の入っているアルバムを買うと、がっかりさせられることが多かったのだ。まして、今回の彼女のアルバムは前作から10年というブランクがある。 しかし、彼女のHPに載っていた彼女自身による新作アルバムのライナーノーツを読んでみて、がっかりすることになってもいいから買って聴いてみようと思った。早速、会社の近くにあるHMVに行ってみたが、橘いずみも榊いずみの名前も見つけることができなかった。もう一軒あるCDショップに行っても同じだった。仕方ないので、ネットで注文して、手に入れることができた。 榊いずみとしてのファーストアルバムはいい意味でも悪い意味でも10年のブランクを感じさせるものだった。アルバムの中には‘以前’を彷彿とさせるような曲もあったが、雰囲気は大きく変わっていた。そして、全曲を聞き終えたとき、いつも日本人アーティストのアルバムを買った時に感じる‘がっかり感’を覚えた。 しかし、せめて3000円分は楽しもうと繰り返し聴いているうちに、当初感じた‘がっかり感’はなくなっていた。平凡な出来と思ったが、何回も聴いているうちに、よくなってきたのである。始めはラフな音作りに思えたが、意外と細かいところまで気を使っているのがわかってきたし、何といっても彼女の声にリアリティが感じられたのだ。 そのリアリティとは彼女が何故10年振りにアルバムを作ったのかという必然性を感じさせるものだった。結婚して家庭を持った彼女の伝えたかったことが詰まったアルバムだった。自虐的だった詩は影をひそめ、聴く者を元気づける前向きな詩が並んでいた。やはり自身の結婚式でも歌ったという‘Family Tree’が抜けているが、家庭内のことが題材に取られた曲が多く、それもまた彼女の「今」を感じさせる。 アルバムを買ってよかったと思った。このアルバムを聴いて、昔の友人にばったりと会って、彼女が或いは彼が今は幸せに暮らしているのを確認したような気持ちになった。(2009.11.1) |