ワンマン

 久しぶりに社長が大阪から上京し、社内の視察を行った。新しく導入された機械の稼働状況を見るためということだったが、6階で作業している部署を2階に移動させよという指示がいきなり出された。その理由は6階で作業している仕事はこれから伸びるものだから、作業場所は少しでも広い方がいいだろうということだったらしい。それは社長命令という形で、期限まで切られたため、社内は社長の帰った後、引っ越しで大騒ぎとなった。

 6階のものをただ2階に運べばいいというものではない。当然、2階で作業している部署があり、それを他の階に移動させなくてはならず、さらにそれに伴った移動も起きてくる。結局、2階から6階まで全ての階が絡むことになってしまい、しばらくの間は何処にいっても机を運んだり、社内LANの配線を変えたり、機材をエレベータで移動させたりという光景を目にすることになった。

 現在働いている会社は完全な社長のワンマン経営ということで、このように社長の一言でいきなり物事が決まったり、決まっていたことが中止になったりする。社長がいつでも的確に物事をとらえる力があるのならいいのかもしれないが、そんな人間は少ないように思われる。今回のようにわずか2分くらい見て、その印象だけで物事を決められると辛いものがある。しかも、それにたいして誰も異議をとなえることをできないのだから情けない。

 僕は小さな会社に勤めることが多かったものだから、こういったワンマン社長を何人か見てきた。彼らは独力で会社を立ち上げ、軌道に乗せたのだから自信家で、能力のある人ばかりだったと思う。しかし、その自信が、会社がある程度の規模になったとき、裏目に出てしまうこともある。25歳のとき勤めた会社はそうだった。それは滑稽で悲惨な末路を辿ることになってしまった。

 その会社は電子部品を設計する社員20名程度の小さな設計会社だった。当時はバブル経済の真っただ中で、仕事は限りなくという表現を用いても許されるほどあった。僕は他の中途採用者と3人同時に採用されたのだが、それでも人手が足りず、常時、人員を募集していたが、なかなか人は集まらなかった。就職求人誌に応募広告を載せても面接に来る人はなく、たまに職安経由で来る人は全くの別業種からの転職者ばかりで、あまり使いものにならないような人ばかりだった。慢性的に忙しい状態が続いていて、一日に3つも納品が重なってしまうと、‘戒厳令’状態になって、深夜までの作業が続いた。

 小さな会社ではあったが、各部署からふたりずつ代表者が出て、週に一回会議が行われていた。僕の所属していたCAD部ではこの慢性的な忙しさを解消するため、まず会社の足固めをすることを要望していた。新たな人材の入社とCADシステムの選定、一部仕事の外部委託である。しかし、社長の関心はそういった地道な体質の強化や改善になく、ひたすら拡大にあった。そういった社長の心情を察して、うまく取り入って行ったが設計部の責任者だったSさんだった。

 SさんはCAD部や営業部の責任者よりもずっと勤続年数の少ない中途採用者だったが、社長に取り入ることがうまく、僕の入社したときにはほとんど側近のような立場になっていた。社長の拡大路線にもいち早く賛同していて、さらにそれを呷るような発言をしていた。

 彼のうまいところはただ単に社長の太鼓持ちにはならず、自身の主張や要求を堂々と社長にいうことで信頼を得たことだ。ただ、自身の主張といっても、それは社長の好みそうなことを、先取りしていたにすぎない。こういったことをいえば、社長は喜ぶということを考えての主張だったのだ。

 それは私生活まで及んで、新型スカイラインを買う時も車屋にローンの金利を払いたくないからと、社長に足りない分を無心して即金で購入していた。社長はSさんのそのようなところを可愛いと思っていたようで、「あいつは頭がいい。金利なんて払うのは馬鹿馬鹿しいからな」と堂々と自身に無心されたことを喜んでいた。

 そうした中、会社の海外進出が検討されることになった。進出する場所は韓国で、日本の後を追っている韓国に行けば、大きな儲けが期待できるというわけだ。しかし、この海外進出計画がただのアドバルーンであることも社員はわかっていた。今のこの会社に海外営業所を作ってそれを切り盛りしていく能力のある人材などいなかったからだ。そして、それは規模を縮小する形で、国内で行われた。長野県松本市に分室をつくったのである。

 何故、長野県で松本市だったのかというと、そのひとつは松本市が社長の生まれ故郷だったということ、そしてもうひとつはセイコーエプソンを始め、長野県には電子産業の大手がいくつもあり、その関係で多くの仕事が受注できるのではないかということだった。分室の名称は松本技術センターに決まり、センター長は当然のようにSさんになった。松本に赴任することになった彼の部屋の賃料は会社持ちとなり、異議を唱える声が燻り始めたが、「あいつは大変な仕事をしているんだから、それくらいは会社で持って当然だ」という社長の一喝に合い、消えた。

 松本でテナントを借り、ふたりの社員を現地採用した。その研修という名目で、一週間交代で若い設計部員が松本に行き、「営業で忙しい」Sさんに代わり研修を行った。Sさんはさらにいい人材を集めるためには会社の福利厚生が重要だと社長に説き、新潟県湯沢に保養所としてマンションの一室を購入させた。それはほとんどスキーが趣味である自身のためだったが、社長もその頃は盲目的に彼の意見を取り入れるようになっていた。

 今思うとSさんと社長は共犯関係にあった。しかし、それはお互いに連携をとってというものではなく、相手に悪く思われたくないという気持ちから、Sさんは社長の喜びそうな計画をぶち上げ、社長はSさんに失望されたくないためそれに同意するという形になっていった。

 松本技術センターは当然のことながら、うまくいかなかった。現地でただひとつの仕事もとることができなかったのである。失敗は明らかだったが、それを認めることは社長はSさんを、Sさんは社長を否定することになり、閉鎖を求める他の部署の責任者の意見は黙殺された。

 仕方なく東京でとった仕事を松本に送って、現地採用のふたりにやってもらうというバカげたことになった。しかも、ふたりに設計してもらった図面は間違いだらけで使いものにならず、東京で一からやり直すこともあった。社長もこの頃になるとさすがに危機感を持ったようで、松本のふたりは技術力をつけるため、しばらく東京で勤務することになった。こうなると、松本技術センターの意味は無に等しくなったが、それでもSさんだけは現地で「営業活動」とやらをしていた。

 数か月の東京勤務を経て、松本で採用されたふたりは再び松本に戻ったが、現地で得られた仕事はなく、東京でとった仕事を松本に送るということが続いた。以前ほどではなくなったが、送り返されてきた図面にはミスが目立ち、それを修正し、さらに他の仕事もあるわけだから、忙しさは殺人的になった。経験者ということで、Sさんの代わりとなる人が入社してきたが、彼は気に入らない仕事をバサバサと切り始め、会社の経営状態は悪化する一方になった。そして、僕たちCAD部の4人は退職を申し出たのである。

 僕たちの退職後、しばらくして会社は倒産してしまったらしい。そして、最初に会社を見限って逃げ出したのはSさんだったと聞いた。彼は社長から借りて買ったスカイラインの残金も払い終わらないうちに転職したらしい。そのことについて社長は何も言わなかったという。自らの人を見る目のなさをただ悔い、何を言っても、そこには虚しさだけしか残らないと思ったのだろう。

 僕にとってもこの退職は大きな傷となってしばらく残った。ここでの仕事は自分に合っていたように思うし、いっしょに仕事をしていた人たちはいい仲間だった。それを失った喪失感は重い雲のように低く心の中に垂れこめた。(2009.9.27)


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