少年マンガ

 仕事を終え、帰宅するため電車に乗った。吊革につかまり、ふと視線と落とすと目の前のシートに座っていた男性が鞄の中から少年マンガ誌を取り出して読み始めた。しばらくすると、僕の横に男性がやってきて、彼もまたデイパックから少年マンガ誌を取り出して読み始めた。ふたりとも僕と同年代の40代前半くらいに見えた。

 よく、口うるさい人はいい大人が電車の中でマンガを読んでいることを、みっともないと批難するが、そんなことはないように思う。恐らく僕の前と横で少年マンガ誌を開いていたふたりの男性は子供の頃から、ずっとマンガを読んできたのだ。その習慣が40代になっても変わらなかったというだけだと思う

 僕も子供の頃はよく少年マンガ誌を買った。少年ジャンプと少年チャンピオンは毎週のように買っていた。特に少年チャンピオンは当時、「ブラック・ジャック」「ガキデカ」「ドカベン」等いろいろなタイプのマンガが読めたので好きだったが、一番熱中したのは藤子不二雄の「魔太郎がくる!!」という作品だった。

 学校でいじめられっ子の魔太郎がいじめた相手に魔力を使って復讐をするというものだが、徐々にオカルト色が強くなっていき、子供だった僕はその怖さに惹きつけられた。単行本も全巻揃えるほど熱中したが、家庭の問題で何回か引っ越しを繰り返すうちになくなってしまった。数年前に文庫本で復刻されているのを見て、購入したが、書き換えられた個所が多く、がっかりした記憶がある。

 書き換えられた個所のほとんどは魔太郎がいじめた相手に復讐をする場面で、恐らく残酷過ぎるという理由で差し替えられたのだろう、前のものに比べてかなりソフトになっている。以前持っていた単行本をなくしてしまったのに、何故書き換えられた個所がわかったのかというと、記憶に残っていたのだ。子供の頃、真剣になったものは、大人になっても覚えているものらしい。

 マンガに限らず、子供の頃に熱中していたものにばったり出会ったりすると思わず衝動買いをしてしまったりする。子供の頃、ミニカーを集めていた人が子供のプレゼントを買いに行ったおもちゃ屋で偶然それを見つけて、懐かしさのあまり自分の子供の物は忘れてしまい、ミニカーをいくつも買って奥さんに大目玉などということもある。

 僕の場合、それはソフトビニール製の怪獣の人形である。子供の頃、僕はウルトラマンや東宝の怪獣映画に熱中していた。映画館にゴジラの映画に見に行ったりすると、最低2回は続けて観た。当時、映画館は入れ替え制などではなく、入場券を買えば何回でも観ることができたのだ。

 僕はそれらに出てきた怪獣の人形を買ってもらうことが非常な楽しみだった。40〜50体くらいは持っていたのではないだろうか。ソフビの怪獣人形はコレクションのためではなく、遊ぶためだったので、右手と左手にそれぞれ怪獣を持ち戦わせたりしていた。そのため、角が取れたり、牙が折れたりとよく壊れた。小学校の高学年になると、僕の興味は野球にいき、ソフビの怪獣人形はいつしか全部なくなっていた。

 3年くらい前、友人の子供のプレゼントを探しにヨドバシカメラに行った時、ソフビの怪獣人形が売られているのを見つけ、思わずキングギドラとゴモラを買ってしまった。子供の時に買ったものに比べて、はるかに精巧にできていた。精巧という意味は映画やテレビで観た感じに近いということである。結婚後、妻がゴジラをプレゼントしてくれたので、現在は3体の怪獣がうちにある。

 ゴジラとキングギドラがそろったので、昔にかえり、右手にゴジラ、左手にキングギドラを持ち怪獣ゴッコを久しぶりにしてみた。ガォーとか言いながら、右手のゴジラと左手のキングギドラを戦わせるのである。子供の頃に比べれば多少の分別がついてしまったため、戦いもソフトなものにならざるを得なかった。子供の頃はこんなことして何が楽しかったのだろうと思っていたのだけど、やっているうちに何となく何が僕を熱中させていたのかわかるような気がしてきた。

 それは空想することの楽しさだったのだ。右手と左手に持たれた怪獣の人形は、想像を広げるための媒体でしかない。それぞれの手に持たれた怪獣の人形を戦わせているとき、頭の中には目の前の人形ではなく、映画やテレビで観た怪獣同士の戦っている画が浮かんでいるのだ。

 ゴジラとキングギドラは実際に映画の中で戦っているが、レッドキングとゴモラはテレビの中では戦ってはいない。もし、レッドキングとゴモラが戦ったら、どうなるのだろう、どっちが勝つのだろうと想像しながら、右手と左手を動かしていた気がする。

 そう考えてみると、女の子のおままごともわかるような気がする。小学生時代、特に低学年の頃はクラスメートと遊ぶというよりも年齢を越えて近所の子と遊んでいた。裏のアパートに住んでいたひとつ年下の女の子と遊ぶときはだいたいがおままごとだった。当時の僕にはおままごとの楽しさが全くわからず、相手の女の子が何故、熱中しているのか不思議だった。僕たちは、いつも夫婦をふたりで演じるのである。僕が会社員、彼女がその妻という設定だったようだ。

 「ただいま」と僕が彼女の住んでいるアパートの前の空地に広げられたビニールシートに靴を脱いで上がる。
 「おかえりなさい。遅かったのね、今、お茶を出しますね」そういって彼女は小さなプラスチック製の湯飲みを出す。もちろん、中には何も入っていない。
 「お、ありがとう」と言って、これを一気に飲み干してしまうと彼女からダメ出しをされてしまう。お茶なのだから一気には飲めないのだ。したがって、口をつけ
 「いい香りだね」とか言う。
 「新茶ですの。ご飯にします?お風呂にします?」
 「そうだね、お腹が減っているからご飯を先にしようか。今日の夕飯は何かな?」
 「あなたの好きなものですわ」
 「ハンバーグかな?」とつい小学生の自分に戻ってしまう。彼女もあまりいい顔はしないが、仕方ないと思ったらしい。
 「ええ、ハンバーグですよ。今、用意しますから」とおままごと用の茶碗やお皿を並ばせる。目の前に並べられた茶碗やお皿をかわるがわる手に取り、食べている振りをする。
 「あなた、ご飯のおかわりはどうですか?」
 「ありがとう」と茶碗を彼女に渡す。彼女はそれにご飯を盛りつける振りをしてまた僕に返す。
 「あなた、ビール飲みます」と彼女はビール瓶に模したプラスチック制の容器を取り出し、コップに注ぐ振りをする。
 「お、いいね。今日は暑かったから、喉がカラカラだよ。お前もどうだい?」
 「そうですね、久しぶりに一杯だけいただきますわ」今度は僕が彼女のコップにビールを注ぐ振りをする。

 このようにほとんど台本は決まっていて、その通りにやらないと怒られるのだ。ふたりで典型的な夫婦を演じることで、恐らく彼女は将来の幸せな結婚生活を想像して楽しい気分になっていたのだ。

 考えてみると、小学校の低学年くらいまでにした遊びというのは、空想することによって成り立つものだったように思う。怪獣ゴッコもおままごともお絵かきもチャンバラも想像を広げることによって楽しさを得ていたのだ。寝るとき、母にお話をねだったのも、それによって想像が広がり楽しい気分になれたからだ。

 空想することによって、子供は楽しんでいる。心の中は無限大だから、空想は広がりつづける。そこにいくと大人になってからの遊びというものは、直接的なものが多く、空想というところからは遠くなってしまった。いや、ただひとつ競馬、でも、これは空想というよりも予想である。大穴を当てて、大金を手に入れた空想はよくするけれど…。(2009.6.6)


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