藤原紀香さんと陣内智則さん夫妻が2年間の結婚生活に終止符をうった。離婚の原因は陣内さんの度重なる浮気だという。夫婦関係が悪化したのは昨年の8月で陣内さんの浮気が発覚したことによるらしいが、その4か月前から陣内さんは「大阪には来るな」「俺はやっぱり独身が向いている」と紀香さんに言っていたという。 昨年の5月、「女性自身」に陣内さんは紀香さんと、紀香さんの両親に会いに行くために着ていくジャケットを巡って、4時間以上も喧嘩をしていたことを告白している。「俺にもああしたい、こうしたいという気持ちはある。それを分かってもらえないなら、これ以上結婚生活を続けるのは無理」と離婚をほのめかしたらしい。 このニュースを聞いて、他人事とは思えないような気がした。それは僕と妻に離婚の危機が訪れているわけではなく、まず結婚した時期がほとんど同じだったために、紀香さんと陣内さん夫妻のことが何となく気になっていたことによる。しかし、それ以上に親近感をもったのは、紀香さんと陣内さんの結婚直前の話だ。 結婚前、お互いに忙しく余裕のなくなったふたりは喧嘩が増え、紀香さんは「こんな状態で私たち大丈夫なの?」との不安から円形脱毛症になり、さらに挙式の10日前には陣内さんがテレビ番組でふたりの秘密をしゃべり過ぎてしまったことから大喧嘩となり、「もう別れましょう」と紀香さんがメールして、電話番号も変え、挙式を中止することまで考え、陣内さんも「覚悟はできている。別れよう」と言ったという。 この話が印象に残っているのは、僕たちの結婚前の状態と似ていたからだ。僕たちも結婚前、いっしょに暮らすことへの不安や忙しさからケンカが絶えない状態で、こんなことなら独りでいる方がよほど楽なのではないかと考えたりした。新居に移った直後もちょっとしたことから大ゲンカになってしまい、いきなり別居の話し合いになったりもした。 これまで、結婚式当日になってキャンセルしたとか、新婚旅行から帰ってすぐに離婚したとかいう話を聞いたことはよくあった。しかし、それらは例外的なもので、結婚といえば普通は希望に満ちあふれて幸せの絶頂なのではないかと思っていた。もちろん、そういうカップルが大半なのだろうけど、僕たちの場合、幸せの絶頂はかなり以前で、結婚することが決まってからは日に日に不安の方が大きくなっていったように思う。 それは、僕たちが若くなかったということが関係しているかもしれない。結婚というものに幻想はなく、見えていたのは厳しい現実だけだった。それでも、その厳しい現実とやらをふたりで乗り越えていく決心をしたわけだから、もっと前向きな気持ちにならなければいけなかったのだが、僕は得るものよりも失うものばかりに心がいき、喪失感がただ広がっていった。 結婚後も、ケンカが絶えず、激しい言い争いにもなったことも何度もある。妻の態度が頭にきて、実家に帰ってしまったこともあった。しかし、不思議なもので1年を過ぎた頃から、激しいケンカはめっきりと減った。その原因は相手がわかってきたのである。それまではちょっとしたことで深刻になっていたのが、相手のわかってきたことにより、それを笑い飛ばす余裕が生まれたのだ。 例えば僕が妻のちょっとしたことに腹を立て怒鳴ったとする。以前だったら怒鳴られることに慣れていない妻が過剰に反応して、激しい言い争いになったりしていたのだが、今では妻はそのちょっとしたことの方に焦点を当てる術を会得したようで、ケンカにならず、笑い話になってしまったりする。要するに、怒鳴られたことに反応するのではなく、怒鳴った原因を考えることで、―それはタケノコの切り方が悪かったとか、ちょっと帰りが遅くなったとかだが―、僕の滑稽さや人間的な小ささが浮き彫りになって、結局、笑うしかなくなってしまうわけである。 相手がわかるということは、ただ単に理解するということではなく、受け入れることである。それがたとえ自分の信条と違っても、受け入れることである。別の表現をすれば、諦めるということでもある。いくら愛して結婚したといっても、元は全くの他人なのだから、自分の思うようにならないことがあるのは当然なのだ。合わないところは、合わないと諦めてしまった方がいいように思う。 陣内さんは「俺はやっぱり独身が向いている」と発言しているが、僕自身も「自分は結婚などするべきではない人間なのではないか」と思ったりする。要するに大人になりきっていないのだと思う。大人になるとは、恐らくいろいろな解釈はあるだろうが、自分のことばかりではなく、相手のことも尊重してバランスがとれるということだろう。僕にはまだまだできないことである。 結婚して2年、何とかやってこられたのは、ひとえに妻の健康的な性格による。妻に感謝しつつ、もっと大人にならなければと反省する日々である。(2009.4.26) |