自信がない

 以前から集まりが苦手だった。特に妻と結婚してから、爆発的に増えた親戚の集まりは気が重い。彼らは日本で生活しているから、日本語もそれなりには話せるが、身内の間ではスペイン語を使っている。その中にひとりほとんどスペイン語の話せない人間が入ってしまうと彼らも気を使って日本語を使わなくてはならなくなり、気が重かったのだ。

 しかし、今年の新年の集まりで、僕の気を重くしている本当の原因は言葉の問題ではなく、自分に対する自信の無さだと思った。自分に対する自信の無さ、もっと詳しく言えば何者でもない自分に対する自信の無さであり、ただの人間としての自分に対する自信の無さだ。

 何者でもない自分に対する自信の無さを端的にいってしまえば、いい年をして何の肩書もなく、時給1000円のパートとして働いていることを表面的には是としながらも、何処か後ろめたさを感じている自分がいることである。

 小学生のとき、学校でウンコをすることは恥ずかしいことだった。便意をもようしたときは友達に見つからないようにこっそりトイレに行き、個室に入った。見られたら、「○○、ウンコしてるぅ〜」などと騒がれて、恥ずかしい思いをするからだ。

 しかし、客観的に考えれば、学校でウンコをすることは決して恥ずかしい行為ではない。生理現象だから、全く仕方ないことなのだ。それを恥ずかしいと感じたのは、みんながそう考えていたからである。

 高校生のとき、一部の生徒の間でレコードを万引きする行為の流行ったことがある。初めはひとりふたりで行っていたようだけど、そのうち集団で万引きをするようになり、‘戦果’を見せ合っていたらしい。しかし、集団でそのような行為を行えば目につくはずで、やがて店員に見つかり、学校へ通報され、彼らは停学処分となった。

 集団化することで、万引きに対する罪悪感は消えてしまい、スリル感やどれだけの‘戦果’をあげたかという仲間に対する優越感に支配されるようになっていったのではないかと思う。

 このように人は周りの雰囲気によって恥ずかしくもないことを恥ずかしいと感じてしまったり、善悪の区別がつかなくなってしまったりする。また、明らかに自分は悪いことをしていると思いながらも周りに流されてしまったり、正しいと思いながらも何処か居心地の悪さを感じたりする。僕の今の状態もそうである。

 正社員の滅私奉公的な働き方や長時間労働にうんざりし、自分の未来というものをぼんやりとしたいために僕は会社を辞めた。そして、ある程度時間の自由になるアルバイトやパートとして働いて、最低限の生活費を稼いで、残った時間は自分の好きなことをして暮らそうと思っていた。そして、紆余曲折はあったが、そのような形になった。

 本来であれば満足するべき結果になっているにもかかわらず、心の中は晴れない。それは今まで現実と想像との差異のせいだと思っていた。最低限の生活費といっても、実際にはお金は多ければ多いほどいいわけで、ある程度自由になると思っていた時間も縛られる。また、パートだからといって全く無責任というわけにもいかず、勤続年数を重ねるほど会社側の要求は強くなり、また、会社の業績もおもわしくないようで人数が削減されたため、ひとりにかかる仕事の負担も重くなり、精神的にも辛くなった。

 こういった面が、僕の気持ちを重くしているのは確かだと思うが、もうひとつの理由はパートであることに、プライドがついて行かないのだ。プライドなどというものは、くだらないものだとは思うし、実際にそうだろう。正社員であれ、派遣であれ、パートであれ、そんなものは人間の価値を決める要素ではなく、ただ単に勤務形態を示しているに過ぎない。パートだから、アルバイトだから、派遣社員だから…、と卑屈になることなどない。それが、わかっていながらも、何処かで自分を肯定できないでいる。世間よって作られたプライドを捨て、自分の価値観によって新しいプライドを作るということの難しさを想う。

 そして、より大きいのは素の自分に対する自信のなさである。どんなことをしても、どんな所でも生きていけるということに対する自信のなさである。妻との親戚の集まりに出るのをつい躊躇ってしまうのは、「どんなことをしても、どんなところでも生きていける人たち」を目の前にしたときの劣等感による。僕は何処でも、何をしても生きていける自信がない。

 彼らの関心は「何をしている人か」ではなく、「どんな人なのか」ということなのだ。だから、例え僕がそれなりの会社でそれなりの地位にあったとしても、集まりを敬遠してしまう気持ちはあまり変わらないかもしれない。

 しかし、違う角度から考えてみれば、彼らとは肩書も仕事も関係ない人間的な付き合いができるかもしれない。それには、まず、溺れることを怖がらずに彼らの中に飛び込むことだ。そして、できることなら、飛び込む時に重石になるくだらないプライドから自由になることである。

 くだらないプライドから自由になる、それはもう、自分の心の中の問題である。社会の中で培養されたとはいえ、心の作りだしたものは、心が破壊できるはずである。そして、自分自身への自信の無さは…。これは、もう、場数を踏むしかない。(2009.1.21)


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