確か小学校3年生の時だったと思う、お楽しみ会をすることになり、それぞれグループに分かれて出しものをすることになったのだけど、僕はどのグループにも入れず、ひとりですることになってしまった。 僕の通っていた小学校は2年単位で組替えが行われていた。したがって小学校3年生のときは組替えをした直後だったのだ。それまで仲のよかった友達と離ればなれになってしまい。ちょっとした喪失感を覚えた記憶がある。したがって、まだクラスの中で友達と呼べるような人はいなくて、お楽しみ会の話が先生からあったとき、何となくこうなるのではないかという予感はあった。 お楽しみ会当日、僕は手品をやるつもりだったが、道具を家に忘れてきてしまったので、できないと学級委員に言って、パスした。初めから手品をするつもりはなく、またできるはずもなかった。そのことを学級委員が先生に報告している声が聞こえ、とても恥ずかしい気持ちになったのを覚えている。それ以来、組分けになるとまた独りになってしまうのではないかという怖さが先立つようになってしまい、実際に綱渡りのような学生生活が続いた。 この気持ちが裏目に出てしまったこともある。高校2年生の修学旅行の班割りのときである。このときも友達同士で班を組みようにと先生から言われた。高校時代はさすがに小学生のときほど人見知りはしなくなっていたものの、本質的にはあまり変わっておらず、親友と呼べるようなクラスメートはいなかった。しかし、遊び友達は何人かいて、何とか彼らの班に入れたのである。 ふと、あたりを見回すと、まだS君はどこの班にも属しておらず、ポツンとひとりいた。S君とはそれほど仲のいいという間柄でもなかったが、性格が僕に似ているような気がして親近感があったのだ。そこで、彼に「こっちの班に来ない?」と声をかけた。彼はうれしそうだった。 しかし、僕以外の班員は彼が同じ班に入ることに難色を示し、「これ以上、人数が増えるのはよくない」と間接的に断ってきた。S君はまた、自分を入れてくれる班を探すために、ひとり彷徨うことになってしまった。彼の姿を遠くで見ていると、昔の僕の姿を見ているようで、心が痛くなった。声をかけた責任のようなものを感じ、彼の班の決まるのをずっと見ていた。 さすがに会社に入ると、こういったことからはほとんど解放された。しかし、いくつか会社を変わるとその中にはレクレーションがあったり、社員旅行があったりと、また昔の悪夢が思い出されることがあった。会社で僕は全く友人を作ろうとしなかった。会社は仕事をするところであり、特に他の社員と仲良くする必要はないと考えていたのである。したがって仕事上の付き合いだけで、個人的に親しみを持っているという人はほとんどいなかった。 レクレーションではボーリング大会や屋形船などが行われた。会社で親しい人はいなかったため、そのほとんどに出なかったが、一度だけ屋形船に乗ったことがあるが、身の置き所がわからず、辛い時間を過ごすことになってしまった。 レクレーションは参加が義務付けられていなかったから、出なければやり過ごすことができたが、社員旅行はそういうわけにいかなかった。社員旅行は仕事の一環という位置づけになっていたのである。社員旅行に参加しない社員は旅行期間に会社での仕事を義務付けられたりしたが、僕にとってはそちらの方がよっぽど気楽だった。しかし、さすがにそこまでへそ曲がりなこともできず、社員旅行に参加することになってしまった。 社員旅行で学生時代のような組分けは行われなかったが、それでも市内観光の組とアミューズメントパーク見学の組とに分かれることになり、僕は前者を選んだ。アミューズメントパークで単独行動をとるのは辛いものがあるが、市内観光であれば、ひとりで気楽に周ることができると思ったからだ。しかし、市内観光といっても観光客の行く場所などにそれほど違いのあるわけもなく、前後に同じ会社の社員がウヨウヨという状態になってしまった。そのほとんどは数人で行動していて、ひとりで周っている僕を奇異の目で見ていた。 そして、ホテルは2人部屋だった。この組分けはレクレーション委員が行った。部屋割りを見て、彼らは機械的にそれを行ったのではなく、社内の人間関係をよく考え分けたのだと思った。仲のいい人同士が同じ部屋になっていたりしたからである。僕と同室になったのは、50代のうるさ型の社員でみんなからあまり好かれていない人だった。彼は夜中に2度放屁をした。会社内でも友達のひとりやふたりは作っておいた方がいいと身に沁みて思った。(2008.4.20) |