逃避

 何かにつけて僕は逃避的である。ある会社をどうしても我慢できずに辞めようとしたとき、そこの社長から「君は今までもいやになったら、そうやってすぐに逃げて来たのか」と言われたことがあった。「すぐに」というところには若干の反論もあるが、「いやになったら逃げる」というのはだいたいその通りのような気がする。いやになるもの、それはいつも決まっている。日常である。

 僕は今も、日常から逃れたいと考えてばかりいる。延々と繰り返される日常から逃避する方法は蒸発や失踪といった過激なものもあるが、僕の場合は旅に出ることだった。行き先も、帰る日も決めず、正に足の向くまま、気の向くままの旅に出ることで簡単に日常からは逃れられた。知らない街をその土地に根を下ろしている人達に混じって歩く気まずさはあるが、それは返ってその場所に何の責任もない旅行者の気楽さを実感させてくれて、慣れてしまうと身も心も軽くなっていった。自分だけが浮遊している感じで、日常生活から遊離している劣等感と自分は自由であるという優越感が入り混じったような気持ちである。

 旅に出ることで鬱陶しい日常からは逃れられた。しかし、現実はいつでも影のように付きまとって逃してはくれなかった。旅先で普通に生活している人たちを見るたびに微かに感じる心の痛みが僕にとっての現実だった。旅に出ていることは非日常、しかし、また、それは現実でもあったのだ。旅に出ているという現実、そしてそれはいつか必ず終わるという現実である。

 家に帰り、また鬱々とした日々に囚われ日常と現実が姿を重ねてひとつになると、旅先で感じた気まずさや心の微かな痛みはなくなり、鬱陶しくて辛く、何となく居心地のよくない日々がまた始まった。しかし、何処かほっとしている自分がまた居たことも確かだった。非日常の日々では常に自分で考え、行動しないといけない。自分以外に自分を律するものがないからだ。しかし、仕事を見つけ日常にどっぷりと浸かってしまえば、おのずと生活のパターンは決まってくる。そして、それを毎日、毎日繰り返していく度に、また、僕はそこから逃げたくなるのだ。

 不思議なものである。日常から逃避したいのに、また日常に戻ってしまう。僕が本当に逃げたがっているのは日常なのだろうか?

 最近、ある女性をいっしょに暮し始めた。しかし、まだ籍は入れていない。そのことで一時、かなり憂鬱になってしまった。僕は結婚から何とか逃げようとしていた。それは彼女への裏切り行為であり、酷いことだとはわかっていながらである。

 前に‘僕が会社を辞めた理由’という文章の中で「僕は会社を辞めることによって未来がある程度決まってしまうことを回避したかったのだと思う。これから流れてくる時を曖昧なままぼんやりとした状態にしておきたかったのだ。僕が会社を辞めた理由は(中略)決まってしまいそうな未来の時間からの逃避だった」と書いた。結局、今回もそれなのかもしれない。逃げるものが会社か、結婚かの違いだけだ。

 未来がある程度決まってしまいそうになると、僕はそこから逃避したくなるのである。自分が決定的な状況に追い込まれるのを回避するために…。一言でいってしまえば、腹が据わっていないのだ。大人に成りきれていないともいえるだろう。仕事や他人に責任を持つことに何所か煩わしさを感じてしまう。僕が逃げたいと思っていたのは日常そのものというより、それにおいて僕を縛り付けるものだったのだ。そして常に新しい可能性というものを残しておきたいといういやらしい気持もある。

 いい仕事、いい女に、或いはもっと自分に合った生活にいつか出会えるのではないかといったような願望も逃避したくなるひとつの要因のように思う。いい仕事、それは単純に定義づけられるが、いい女となると少し厄介だったりする。ほとんど何の問題もないのに、自分にはもったいないという感情が起きたりして、もっと気楽に付き合える何所かに傷のあるような…などと考えたりして、また逃避の迷路に入り込んでしまう。

 しかし、何だかんだといっても結局、僕は曖昧なまま漂っていたいだけなのかもしれない。何にも責任を持たず、遊んでいたいだけなのだ。決定的な状況になることに息苦しさを感じるというのも、それが僕を縛り、漂うことができなくなる怖さから来ているように思う。そして、僕は逃げる。

 そしてもうひとつ、まとまった濃厚な時間がほしいという欲求である。会社勤めをしていれば時間は細切れにしか存在しなくなる。その切り刻まれた時間をやり繰りするだけで一日が終わり、一週間が終わり、そして一年が過ぎていく。そのことに焦燥感を覚え、そして僕は会社を辞め、旅に出たりした。長期の旅には確かに濃厚な時間があった。しかし、それを続けるとやがてそれは腐り始めて、腐臭を放つ。腐り切るまでそれに身を委ねたいという欲求もある。しかし、また自分はその腐臭に耐えるだけの強さはないこともわかっている。そして、僕の逃避はいつも中途半端で終わる。

 端的にいってしまえば、モラトリアムで怠け者ということなのだろう。このまま逃げ続けて、ゆくゆくはどうなるのだろうか?自分を探し続けて何も見つけることのできなかった人生って?そもそも、何を探しているのかもよくわかっていない。ただ見つけたものに対して「これは違う」と思っているだけ。執行猶予の期間はいつまで続くのだろうか?

 解決策は自分を捨ててしまうことしかないかもしれない。自分のコアの部分が守れなくなると感じると自分を失わせようとするものからの逃避が始まる。自分を否定して、全てに対して開いてしまえば、或いはもっと楽に生きられるのかもしれない。(2007.5.5)


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