隠れた幸せ

 人は何のために生きるのかと言われれば、幸せになるためだと思います。しかし、この‘幸せ’いうのは人それぞれで、どういう状態を幸せと感じるかというと個人によってかなりの違いがあるのではないでしょうか?

 幸せも外から見えるものと、見えないものがあると思います。外から見える幸せとは、いい仕事に就いているとか、立派は家に住んでいるとか、お金をいっぱい持っているとか、かっこいい車に乗っているとか、奥さんがきれいだとか、他人から見てもわかるようなものです。

 そして、私たちが幸せになりたいと願うとき、まず求めるのはこの外から見える幸せだと思います。いい仕事に就きたいと思い、お金がほしいと思い、いい伴侶にめぐる会いたいと思います。しかし、この願いが叶うことと、幸せになることは全く別のことだと思うのです。

 例えばいい仕事に就きたいと考えるとき、あなたにとって‘いい仕事’とは何なのかということが問題になってきます。他人から見ていい仕事とは、いい会社に就職することだと思います。「あの家の息子さん、一流の自動車メーカーに就職が決まったんですって」「よかったわね」という感じです。しかし、本人にとって必ずしもそれが幸せだとは限らないと思うのです。

 一流の会社に就職しても激しい競争や複雑な人間関係などで体調がおかしくなったり、精神的に病んでしまったりするケースはよくあることです。それではいい会社に勤めていても、幸せではなく、むしろ苦しみでしかなくなってくるわけです。他人から見ればうらやむような境遇であっても、本人にとっては地獄ということはあります。

 傍目には仲の良さそうな夫婦が、家の中ではろくに会話もしないくらい冷え切った関係になっていることもあります。立派な家に住んでいても、その中に住んでいる家族の関係が崩壊していたら、それはもうただの張りぼてです。

 一流企業ではなくても、正社員ではなくても、パートやアルバイトといった境遇であっても幸せを感じている人もいます。他人からみれば低賃金で安定性もない仕事であっても、自分にとって生き生きとできる場所ならばそれはもうそれで幸せだと思うのです。アパートの一室で貧しそうに暮している家族でも、お互いの心が通い合っていればもう充分なのです。

 ほんとの幸せとは他人から見てわかる‘わかりやすい幸せ’にあるのではなく、本人だけにしかわからない‘隠れた幸せ’だと思うのです。世間の目を気にして、世間の物差しで幸せを探しても、それは上辺だけの仮面に過ぎないと思います。初めはその仮面を心地いいと感じるかもしれません。しかし、時間とともに仮面の下の素顔が疼き、それを剥がしてしまいたいという欲求が首をもたげてくるように思います。

 そこで仮面を剥がせる人はまだいいと思います。しかし、大抵の人は一生その仮面を被ったまま生きていくより仕方なくなり、仮面舞踏会を続けることになるのではないでしょうか。

 世間の物差しなど棄ててしまって、自分にとっての幸せというものを考える必要があります。何が、自分にとっての幸せなのか…。とりあえず僕にとっての幸せはゆっくりと眠れて、散歩できるくらいの時間的余裕のあることでしょうか。(2006.12.23)


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