いつの頃からか、僕の心の中に‘ここではない何処か’という感覚が芽生えた。その感覚は暮している街、就いている仕事、そして付合っている女性など生活のほとんど全般に及んでいる。 初めて就職した会社の中に「今の自分は仮の姿だ」といつも言っていた男性がいた。彼は僕よりひとつ年下だったが、仕事でミスをしたり、上司から注意されたりと事あるごとにそんなことを言い、周囲の冷笑を買っていた。僕も彼を冷笑していたうちのひとりだったが、何となく彼の言っていることが何となく理解できた。 時が経ち芋虫が蝶へと変貌する。彼はそんなことを夢想していたのかもしれない。僕の場合、彼ほど明確な感覚ではなく、‘何か違うのではないか’といった漠然としたものだった。今ここで生きているというはっきりとした実感が希薄なのだ。何も確かなものがないといった感覚だ。 こことは別の場所に暮していて、別の仕事をしていて、別の女性を愛していたのではないかといった取りとめのない浮遊した考えが浮かんでくる。 僕は東京という街で生まれ育った。しかし、東京という街を故郷と感じたことは1度もない。これは東京、特に23区内で生まれ育った人に或いは共通する感覚なのかもしれないが、何かが違うような気がずっとしていた。僕にはもっと暮していくのにふさわしい土地があるのではないかと、何度も旅に出た。好きになったところはいっぱいあった。だけど、そこに住んで暮していきたいと思えるところはなかった。 知人の女性にそんな話しをしたところ「青い鳥は意外と近くにいるもの」と言われた。しかし、僕は東京という街が自分の街とはどうしても思えなかった、というより思いたくなかった。それを認めてしまうと、何故か自分を失って別の誰かになってしまうような恐怖感があった。 職場でもいつも何かが違うような気がしていた。仕事をしていても実感がわかなくてただ漂っているだけだった。つまらないゲームに嵌まり混んでしまったように思え、自分の居場所がなかった。環境が変われば…と思い何回か転職したが、実感がないのはいつも同じで、何かが違った。 ここではない何処かで本来の自分は別の仕事をしているのではないかといった感覚が常にあり、今やっている仕事に対して冷めていて入り込むことがなかなかできなかった。会社にどっぷり浸かっている同僚たちが別の生物に思え、彼らとあまり親しむことができなかった。 だけど、僕に明確なものがあったことはない。やりたいと思う仕事も特になかった。‘ここではない何処か’を求める旅はいつも現実的に帰結し、自分のできるものを選んでいたのである。 それは付合っていた女性にもいえることで、僕には特に好きな女性のタイプはなく理想もないため、好きになった人が自分のタイプだと思うことにしていた。それはそんなに悪いことではなく、むしろ好ましいことのように思われたが、ほんとに自分はこの女を愛しているのかと自問すると自信はなかった。大して好きでもない女性を好きだと想い込ませようとしているだけかもしれなかった。 僕は女性にもてるタイプではないから、会社を変わるように次から次へと別の人を求めるといったことはできなかったが、目の前にいる‘恋人’に愛しているという実感が薄く自分で自分を欺いている感覚がしていた。 実感のなさということは、考えてみると自分というものが希薄になっているのかもしれない。僕は実体のない幽霊のような存在になってしまったのだろうか? ‘ここではない何処か’の裏側に‘自分ではない誰か’という感覚もある。物が大量生産され、大量消費されると同じように人間も使い捨てされる。今、ここにいるのは自分でなくても一向にかまわない、誰でもいいのだ。 同じような人間が大量生産される時代では、それぞれの顔の違いがわからなくなってくる。それが生きている実感を失わせているように思う。そしてテレビの中に映し出される‘粗悪品’を見て何処か安心している自分がいる。俺はあれよりはまだましだと。 ただひとつ、実感のあることがある。それは何ともいえない息苦しさ、閉塞感だ。何処にも行き場所がない閉塞感である。(2006.11.19) |