デジタル社会

 テレビの地上アナログ放送は2011年7月で停波し、地上デジタル放送のみになる。レコードからCDに変わったのはもう随分と前のことだし、カメラも今はデジタルが全盛で銀塩は角のほうに追いやられている。世の中、アナログからデジタルへと移り変わっていく。

 今は書かれていないけど、CDが出始めた頃、そのすばらしさを説明する文章が必ずジャケットの裏表紙辺りにあった。要約すると従来のレコードに比べて雑音はほとんどなく、音質もマスターテープそのままであるとその素晴らしさが述べられている。僕も当時、これをそのまま鵜呑みにして疑うこともなかったのだけど、どうも現実はそう単純でもないようである。

 デジタルカメラが銀塩の持っている深みと温かみのある味わいを出せないように、CDもレコードの持っている音のディテールを失っている。便利ではあるが、ディテールに欠けるというのが、デジタルの特性らしい。このデジタル化、それはメディアや電化製品ばかりではない。人間のデジタル化も起きているような気がする。

 デジタルとは0と1だけの世界である。この2つの数字だけで全てを表現する。最近の世相はデジタルの世界のように白か黒か、右か左か、上か下か、物事を全て単純化させて考える傾向が強くなっている気がする。かなり前から言われ始めた‘勝ち組’‘負け組’などその典型だろう。この勝ち組と負け組、どういうことを言っているのか僕にはあまりよくわからないが、そもそも人生に‘勝ち’とか‘負け’とかあるのだろうか?

 人生はいろいろなことが積み重なって過ぎていく。いい仕事に就いていたとしても、家庭に恵まれていない人もいれば、その逆もあり、また何に価値を感じるかなどということは人それぞれである。到底、ひとつの物差しで人の勝ち負けなど判断できるものではない。

 もし仮に幸せという物差しで、勝ち組と負け組を分けるとしても、何に幸せを感じるかということは、人のよってかなり違いがあるだろうし、またその状態は移ろいやすい。それを考えると、人生と‘勝ち’または‘負け’という固定化した観念は全く相容れないもののように思う。もし、自分は勝ち組だと考えている人がいるとしたらかなり脳天気な人だろうし、負け組だと思っている人がいたらかなり悲観的な人だと思う。

 最近、流行ってきた格差や上流・下流社会という言葉も全く同じ傾向のものだ。単純で面白く、そして衝撃的に物事を表現しようとする傾向が強くなってきているような気がする。白の黒の間にあるいろいろな灰色を見ようとも考えようともしていない。

 マスコミでも極端な意見を大声で言う人がもてはやされている。勢いのある人間は何処までも持ち上げ、川に落ちた人間は徹底的に叩く。正に0か1だけのデジタル化である。怖いのは、極端な行為に走る人が増えてきていることだ。

 自分の思い通りにならないとか、注意されたとか、ちょっと喧嘩をしたとか、それだけで人の命を奪ってしまったりする。話し合えば、何とか解決できるようなことなのにそれができない。まるで、問答無用に戦争を仕掛ける何処かの国のようだ。

 最近、普通のコミュニケーションをうまくとれない人間が多くなっているように感じる。話し合うことが面倒臭いのか、一方的な意見を押し付けて来たり、または人を避けたりする人間は僕の周りにも多い。

 実は彼らの多くが、一方的な意見をいつも押し付けられていたりする。それはテレビによってである。家に帰っても、家族とのコミュニケーションはほとんどなく、テレビだけを延々と見ているという人は多い。テレビは物事を分かり易く図式化する。それに慣れてしまうと、人と人との間にある微妙な陰影を確認することが苦手になってしまうのではないだろうか。また、その反動として相手の心をあまりに深く読み過ぎてしまったりするのではないだろうか。

 相手の気持ちを全く考えなくなったり、その反対に深く探り過ぎたりして、その間にある健康的な心がすっぽりと抜け落ちてしまう。心のデジタル化である。

 媒体や電化製品のデジタル化は時代の流れであり、仕方ない。しかし、人間の心までデジタル化していくと、冷たく殺伐とした社会になっていくような気がする。一方的に情報を浴びていると、いつしか心は弾力性を失い固くなっていく。心をいつまでもアナログの状態にしておくためには、他者とのコミュニケーションしかないように思う。他者の立場に立って、他者を思いやる。そんな他愛のないことが、重要なのかもしれない。(2006.4.30)


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